私は、家まで来てくれた三人に事情を簡単に説明した。

三人は目を丸くしながら私の顔を見ていた。

キャシーは特にきらきら光る大きなグリーン色の瞳を私に見せてくれた。





「だから、これからちょっとチハヤの家に行ってくるね。急で本当に悪いと思っているし、

この埋め合わせはいつかかならずするわ。だから止めないでね。

いまチハヤの家に行って、彼に会わなかったら、

私は一生チハヤの影にびくびくおびえながら生きていかないといけないの。大げさではなくて本当の意味で。」





私は早口で言葉を三人に向けて飛ばしながらも、淹れたてのハーブティーを三人の目の前にことりと置き、

上出来に仕上がったマフィンを机の上に出した。



「一体いきなりどうしてそんな風に思ったんだい?

私がこの前家に来た時は、そんな考えを起こすなんて微塵も感じられなかったのに。」




キャシーはびっくりしたままの目をこちらに向けながら、私に聞いてきた。聞きたい気持ちはよく分かった。

キャシーに見せる私の姿は、ほとんどゾンビみたいだったのだから。





「チハヤのこと、今でも忘れていなかったのね。当たって砕けるのも時には必要だと思うわ。

もしかしたら成功することだってあるかもしれないし。」

ルーミちゃんは茶目っけたっぷりにそう言うと、私に向かってウィンクをしてみせた。



リーナはおろおろとした表情を見せていたけれど、私と目が合うと小さく笑ってくれた。


「アカリちゃんが思ったことをチハヤくんにぶつけてみて、全然いいと思う。

でも、どんな行動を取ったにしろ、チハヤくんは今マイちゃんと付き合っている。その事実を忘れないでね。」



「うん。分かってる。ありがとう。私、チハヤと付き合おうとかそんな虫がいいことを考えているわけじゃないの。

今は本当に、チハヤの家に行こうとしている自分がいるだけで、奇跡みたいで、なんだかおかしくて、

でも、これでやっとチハヤと話をつけることができる。」



私の指は、かすかに震えていた。その手をキャシーがぎゅっと握ってくれた。



「なんて言ってもいいよ。頑張ってきな。」


「思いっきりぶってきたっていいと思うわ。」



「ルーミちゃんはいいすぎじゃない?」

「あら、それぐらいのこと当然じゃない?あたしだったらそうするけど。」


「ふふ、みんなありがとう。ちょっと行ってくるね。好きなだけいてくれて、かまわないから。」




「行ってらっしゃい。」






自分の考えが正しいのなんて分からなかったけれど、

家を出た瞬間の、草の匂いだとか太陽の眩しさだとか、牛や羊の毛の色とかが、前よりも鮮明に見えた。


どろどろとした沼の中から、這い出したような気分だった。

自分の気持ちに自身を持てることって素晴らしいことなのだと、私は思った。



ちょっとだけ足が早くなるのを止められなかった。

私の靴は、元気よくというかほとんど飛ぶように土を蹴って、先へ先へと私を急かした。

チハヤと会って、何を言うかなんて考えていないというのに、

オーブンから出てきたマフィンを見た瞬間から、

私はなんだか堂々とした態度で、彼の前に立てると信じきっていた。






チハヤの家に行くことは、この数カ月間私が思っていたことよりもはるかに容易だった。

どの家よりも私が通ったチハヤの家への道は、私が数カ月通らなかっただけで、

変化があったわけではなく、ただ季節の変わりが私たちが離れた時間の長さを教えてくれていた。






本当に馬鹿みたいだった。

私はなににこんなに時間をかけてしまったのだろう。なににこんなに意地を張っていたのだろう。

チハヤに対して?マイに対して?それとも、自分自身に対して?



どこよりも親密で、すぐに噂が立ってしまうこの村の中で、チハヤが家から出て行ってしまったことが、

恥ずかしかった、悲しかった。


どんな顔をして、噂の渦中の人間として、道を歩いたらいいのか分からなかった。






恥ずかしかった。思いっきり恥ずかしかった。


そして悲しかった。泣きたかった。捨てられるなんて思いもしてなかった。

それなのに、そう信じて、信じ切っていた人から裏切られた。

もう帰ってきてくれなかった。私は、無意識のうちにチハヤの帰りを待っていた。


自分から追いかけようとはしなかった。そうするのは、チハヤの役目だと、そう思い込んでいた。




大好きだった。本当に大好きだった。


チハヤの瞳も、髪の毛の色も、やわらかな声も、温かい皮膚も。

大好きだった。傍にいてくれるだけで、私はすべてが満たされていた。


大好きだったのに、キライになりたかった。



チハヤを見るたびに、自分と似ている内面に気づかされた。

自分自身を見ているようで、イライラすることもあった。

小さくて、とてもささいなすれ違いがやケンカが山のようにあった。



それでも、私たちは乗り越えて行けると信じていた。

だからこそ、ドアの向こうに消えていったチハヤのことが許せなかった。


彼のすべてをキライになりたかった。








呼び鈴の音がしてから、ちょっとして彼の姿が私の前に現れた。

久しぶりの対面は、私が思ったよりもあっさりとしていた。

チハヤは驚いた顔をしているのに、どこかこうなることを予想していたような瞳の色を私に見せた。



「来てくれるって、思ってた。」



「なによ。自分が逃げだしたんじゃない。」

「僕の気持ちに、君は答えてくれなかったじゃないか。」


私が黙りこむと、チハヤは苦笑しながら、入ってとドアを大きく開けてくれた。

私はおずおずと部屋の中に入った。懐かしかった。チハヤの匂いがした。



ただ、私の物がある程度影をなくしていただけで、チハヤの部屋は前とそんなに変わっていないように見えた。

何カ月も前のことだから、思い出せないだけかもしれないけれど。




「座って。ちょうどいいね、おやつがあるんだ。」


チハヤに指定された椅子に座って、待っていると、

チハヤの手元にチェリーパイが綺麗に八等分された形で、現れた。

私はもう少しで、勘弁してよといいそうになった。




「いま、ハーブティー淹れたから、それもどうぞ。」

「・・・・ありがとう。」




チハヤのチェリーパイは相変わらず美しかった。

きらきらと光るチェリーパイは、まるでチハヤとマイの関係を表しているかのように思えた。


私は一口口に入れてみた。やっぱりチハヤの味が最高だった。

この味に、私がかなうはずがなかった。








「僕では、君を幸せにすることが出来なかったね。」



しばらく、二人とも黙って、気まずい雰囲気が流れていたのだけれど、

その沈黙に一番に手を打ったのは、チハヤだった。

ただ、私はそのチハヤの言葉にぎょっとしてしまった。




「やめてよ。そんな小説の中に出てきそうな台詞。チハヤには、似合わないわ。」


「そう?」



チハヤはチハヤで、私のことを考えてくれていたのだ。

そう思っただけで、私はここにきてよかったと思った。暗い冷蔵庫の中とは、もうさよならが出来ていたのだ。





「私たちは、ちょっとズレが生じちゃっただけなの。

それをずるずるずるずる引っ張ちゃって、結局こうなっちゃっただけじゃない。

これは、二人の責任でしょ。

ただ、私はこの関係を断ち切る前に、チハヤがマイに逃げちゃったことが許せなかっただけ。」



「逃げたわけじゃないよ。・・・いや、結局は逃げだったのかもしれない。あの時はね。」



チハヤの睫毛の形を視線でなぞりながら、私はチハヤはどれくらい苦しかったのだろうかと考えた。

私は、私ばっかりが谷底に突き落とされたばかりだと思っていたのだけれど、

チハヤはチハヤで追いかけてもこなかった私のことを、きっと殺したいくらいに憎んでいたのだろう。そう思った。






「・・・・今、マイのことちゃんと好きなの?」


私は勇気を振り絞って聞いてみた。

これでノーと言ったら、ルーミちゃんの言われた通り、殴ってやるつもりだったのだ。


けれど、チハヤは私の目を見ながら、こくりと頷いた。

これでもう、今回のことはすべてチャラにしてしまえそうだった。本当はすこし悔しいけれど。




「幸せになれそう?」



「そうだね。」




「すくなくとも、私たちのときよりは、幸せにならないと許さないわ。

この村ではそんなことつつぬけで、私にはすぐにわかっちゃうんだからね。」

「はは、そうだね。分かってるよ。」



「でも、これからは酒場にだっていくし、チハヤが作った料理だって笑顔で食べてやるんだからね私。」


「じゃあ、僕はアカリの牧場に食材を買いにだっていくし、アカリとはこの数カ月のようにはなりたくないね。」


「うん。それが聞けてよかった。ついでに惚気もね。」


「惚気てなんかないじゃん。」



「今、幸せなんでしょ?私にとっては、それでもう満足。


ごめんね、いきなり来ちゃって。また酒場に顔出すわ。」


私は立ちあがった。もうチハヤと話すことは何もなかった。

頭の中も心の中も、すべてすっきりとした気持ちだった。


チハヤはもう私の元に戻ってこないということが、はっきりしただけでこんなにも心の中がキレイになれるのなら、

早く冷蔵庫の中のチェリーパイをゴミ箱に捨てて、ここに来ればよかったのだ。



「じゃあ、私、そろそろ帰るね。ごめんね。こんな風に話が出来るまでに、

死ぬほど時間がかかっちゃって。ただ、自分なりに整理をつけれて、本当によかったわ。

あと、チェリーパイありがとう。おいしかった。」


「僕のほうこそ、ありがとう。アカリのことはずっと気がかりだったんだ。だけど、自分から会いに行けなかった。

ああいう風に出て行ってしまった手前ね。だから本当に嬉しかったんだよ。」



「それなら、もうよかったの。じゃあ、また酒場でね。」




「アカリ。」



「なあに。」




私は、ドアの前でチハヤの方に振り返った。

目の前にいる、昔の恋人。なんだか変な感じだった。

今まで付き合ってきた人とは、別れてからほとんど、ううん全然会っていなかったものだから。


チハヤは相変わらず、完璧にキレイな顔をしていた。

長い睫毛も、薄紫色に輝く瞳も。全部全部、ずっと見てきた、チハヤの顔だった。やっと今、思い出せた。






「本当に好きだったよ、アカリ。」



「私だって。チハヤ、私だってそうだったわ。」




お互い少しだけ見つめあうと、ただそれだけで十分だった。

私はそっとドアを閉めると、自分の牧場へと帰って行った。








なにがあったって変わらない気持ちを持つことが出来るほど、私もチハヤも強くなかった。



ただ、それだけの話だった。












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