チハヤとマイが付き合い始めてから、2ヶ月が経とうとしていた。




その頃になると、私の生活の中にあったチハヤとの生活は、すっかり影の中に隠れていった。

今ではもう、チハヤの瞳の明るさだったり、肌の色だったり、睫毛の長さだったり、

私の中で感じていたチハヤの印象が、ひとつひとつ紗の向こう側にあるみたいに、ぼやけていった。



今では、大まかな特徴でしかチハヤのことをくっきりと思い出せなくなってしまったくらいだった。


それは、チハヤと付き合うことをしなくても、酒場の客として通っていれば気づく程度の、彼の特徴だった。




そんな自分の変化に、私は少しだけ安心していた。



時間というものは、本当にさらさらとした砂のように、チハヤといた時間や彼の表情や温かさを、

向こうの方におしやって、流してくれる。




チハヤともう、付き合うことなんてないんだろうなあ。

そうぼんやりと思っていた私にとって、時間というものはとてもありがたかった。




最近では、リーナが企画した女の子だけでのお茶会に参加していて、

半月に一回あるこの集まりは、いろんな子の話を聞けるので、私の気分をよくしてくれた。


女の子の会話というだけあって、大半は恋の話になったりするのだけれど、

(初めのころ、彼女たちは私のことを知ってかマイを誘わなかったり、恋の話から遠ざけてくれていたけれど、

私が普段通りに接してくれるように振舞っていたので、やっと最近自然に恋の話が出るようになったのだ。)

まるで調味料のように、甘くなったりしょっぱくなったりする彼女たちの話を聞いていると、

ああこれが恋なんだよなあ、と今更ながらに思ってしまう自分がいて、思わず苦笑いしてしまうこともあった。


まるで仙人だったり、おばあちゃんだったりになった気分だった。




今日は、私の家でお茶会をする予定だった。

私の家でするのは初めてのことだったので、なんだか私は少し変な緊張を感じながら、準備をしていた。

それはわくわく感のような、小さな子が遠足を楽しみにしている気分に少し似ていた。






今回のお茶会に参加するメンバーは、リーナとキャシーとル―ミちゃんだった。




みんなは、おやつ時に私の家に来ることになっていたので、

私は、彼女たちのためにお菓子を自分で作ってみおうと思った。




初め、ふとそう思った時は、ただ今日のバターの出来栄えがよくて、

すぐに料理に使ってみたかったという理由だけだったのだけれど、

人様にあげるとなると、おろそかな料理は出来ないので、

私は本棚から料理の本を取り出して、パラパラとめくってみた。


それらのほとんどは、確かチハヤが持ってきてくれたものだったのだけれど、

私はその本たちのどれがチハヤのものだったのか、

どれがチハヤに薦められて買ってみた本だったのか分からなくなっていた。






少しずつ、少しずつ、チハヤの記憶が私の頭の中から薄れていく。

薄皮のように、ちょっとずつ剥がれていくみたいだった。




お茶会のために、マフィンを作ることにした。

手軽ですぐ出来上がるものだから、彼女たちが来る時間と照らし合わせて、

オーブンの中とにらめっこしたりすることはないだろうと思ったからだった。



銀色に光るボウルに触れる。

久しぶりにお菓子作りをする。思うと、あのチェリーパイを作って以来だった。



チェリーパイを作ったあの日よりも、私は前に進めているのだろうか。


ぼんやりとそんなことを思いながら、今日一番出来栄えのバターをすっと切り分けた。



チハヤがドアの向こうに消えてしまったときから、私はチハヤの髪の毛の先も見かけていなかった。

今では、チハヤの声もすっと記憶の向こう側に行ってしまい、鮮明には思い出せなくなっていた。


彼の視線も、彼の手つきも、彼の熱も。

すべてしゅわしゅわと消えていくみたいだった。


私は夢の中で、彼と恋をしていたのだろうか。そんな風に思ってしまうこともあった。





彼の姿をぽろぽろと忘れていくと同時に、私はひどく彼を憎むようになった。


冷たい言葉を投げかけられたときのあの瞳の色に、

同情も見せてくれなかった、きっぱりとした後ろ姿に、


もっとなにか彼の中で解決できることがあったのではないか。

それなのに、すべてそれを私だけに押しつけて、自分はさっさと他の子と新しい道を歩もうとしている。


憎かった。憎らしかった。一度思いっきりぶってやりたかった。


私も十分逃げた。逃げて逃げて、二度と彼の冷たい瞳の中に自分を置きたくなくて、彼を追いかけなかった。



でも、チハヤだって、私と同じではないか。




チハヤだって、私から逃げた。温かく抱きしめてくれるマイの腕の中に逃げた。


チハヤは追いかけてこなかった私のことを許さないだろうけれど、

私は他の女の子の腕に逃げたチハヤを、許す気にはなれなかった。



今目の前に彼が現れたら、思いっきり頬をぶってやるだろう。



ああ結局、私たちはすっかり同じ人間なのだ。

二人ともお互いに自分自身が近すぎた。

まるで鏡の前にいる自分を見ているような気持ちになって、イライラさえ感じていた。



だから、片方が逃げたとき、もう片方も同じ行動をとったのだ。



やっとそのことに気付いた自分自身が情けなくて、

私は気づいたら銀色のボウルの上に、ぽろぽろと涙を流していた。



悔しくて、悲しくて、もどかしかった。




やっとそんな感情を持つことができた。

ちょっと前までの私は、チハヤがいなくなったことに動揺していた幼いヒナのような存在だった。

時間をかけて、砂時計の中で転がるうちに、私はやっとチハヤと私の関係を明確に分かることができたのだ。






チハヤに会いにいこう。



そうしなければ、私たちはきっと本当の意味で前には進めない。

マイと付き合うことで、前に進んだと思っているチハヤに、

あなたはまだまだうずくまっているだけだと、教えてやりたかった。


そうすれば、少しは気分がすっきりするかもしれない。







冷蔵庫の奥底にしまったチェリーパイは、すっかりしぼんで固くなり、青くなっていたので、

ゴミ箱の中に捨ててしまっていた。










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