風の便りで、チハヤとマイが付き合い始めたことを耳にした。 その知らせは、私の胸の中にさらりと舞い降りると、じくじくとした痛みだけを残していった。 大丈夫、なんてことないわ。 そういって胸に巣食う痛みを拭い去ることもできずに、私はただただじっと、 息を押し殺してこの痛みが去ることをじっと待っていた。 まるで、もうすぐ去ってくれると、信じているかのように。そんなことありもしないのに。 でも、私には待つこと以外、どうすることもできなかった。 いま私がチハヤに会って、きちんと別れてもいないのに、マイと付き合うなんてどうゆうことと、 罵り怒鳴ることも、泣きながら尋ねることも、そんなことする権利なんて私にはない。 そうする前に、私にはしなければならないことがあるはずだったのに、 臆病さに身体を蝕まれた私は、それをしなかった。 それなのに、都合のいい時だけ、チハヤにすがりつくような真似だけをするなんて。 そんなこと、とてもじゃあないけれど出来なかった。 そんなことをしたら、またあの冷え切ったチハヤの瞳の前に、自分の身を置かなければならないのだから。 ちくちくと胸が痛い。 一目でいいから、チハヤの姿を見たかった。t 彼の肩や彼の歩く姿、髪の毛からのぞく耳たぶの白さを見ることができたら、 私はもう一度、冷蔵庫の奥底にしまったチェリーパイと向かいあうことができる。 瞼の裏に、ずっとひっついている彼の横顔。 震える睫毛の先。すっと、こっちを見てくる瞳の奥の豊かさ。 手を伸ばせばあったはずの、彼との距離。その間の空気。二人の関係。 ぱたりと、どちらかが閉じてしまった時、もう片方が頑張らない限り、二人の道は閉ざされたままだった。 チハヤが私の家から出て行ったとき、私は頑張らなければならなかったのだ。 もうそんな過去のことをいつまでも繰り返し思い出して、悔いていても前へは進めないというのに、 私の頭の中は、あの時の映像が繰り返し流れている。 壊れてしまったビデオテープみたいに。何度も何度も。 腐った殻を身にまとったような、じめじめとしていて閉ざされた生活を繰り返している内に、 (それはとても気分が悪くなったり、気持ちがわるくなったりした) 私は、何が今までの生活だったのか、分からなくなってきていた。 その風の便りが私の耳に届いてから、キャシーが心配して私のところに来てくれた。 キャシーの手には、温かいパンとワインが入ったかごが握られていた。 「久しぶりに、アカリのとこで作ったチーズフォンデが食べたくなってね。勝手に買ってきちゃった。」 キャシーはそう言いながら、きれいな白い歯を見せて笑ってくれた。 ひまわり色をした彼女の濃い金髪の鮮やかさが、 モノクロの世界の中でひっそりと過ごしていた私の心の中に、くっきりと映ってきて、とてもきれいだった。 私は、冷蔵庫の中から一番上等で新鮮なチーズを取り出すと、ワインを少し入れて、鍋でとろとろに溶かした。 すぐに、チーズの濃いにおいがキッチンの中を、ふわりと満たした。 いい匂いね。キャシーはそう言いながら、新しい赤のチェックのテーブルクロスをかけてくれた。 チハヤが選んだ薄水色のテーブルクロスをキャシーは手早く折りたたむと、ぽんと洗濯かごの中に入れた。 私は、チーズをかき混ぜながら、その様子をじっと見つめていた。 チハヤがマイと付き合い始めた今、私の家の中にチハヤの面影があるのはいけないことなのかしら。 うじうじと頭の中でそんなことを考えていた。 でもその考えが肯定されると、私はだいぶ多くの物を新しいものに変えないといけなくなる。 今かき混ぜているこのおたまも鍋も、チハヤが使いやすいからと選んできたものだったのだから。 キャシーはカクテルも用意してくれていた。気にいってるパイナップルとリンゴのカクテルだった。 これほどにはないといういいタイミングで、火を止めると、私は鍋をキャシーがひいてくれた鍋置きの上に置いた。 二人で軽やかにカンパイをした。チンと空気に触れ、グラスから綺麗な音が出る。 「なんだか、二人でご飯を食べるなんて久しぶりじゃない?」 「ふふ、そうね。いつも周り誰かいたものね。」 「酒場じゃあこんな静かにご飯は食べられないもの。」 キャシーと私は、ちぎったパンを、とろとろになったチーズが入った鍋の中で、そおっと泳がせた。 私は、キャシーがいつチハヤとマイの話をしてくるのかと、彼女の瞳をうかがっていた。 けれど、キャシーの明るい葉っぱ色の瞳は、温かい太陽の光を浴びたかのように、ちらちらと光っているだけで、 その中に、心配そうな色も、悲しそうな色も見えなかった。 キャシーはすべて知っていて、私が話をするのを待っているんだ。 私が傷つかなように、私が今どんなことを思っているか分からない彼女は、ただ私の言葉を待っているのだ。 私のどんな言葉にでも、彼女はそっと私を包み込んでくれるのだろう。 そんな気持ちにしてくれる優しさが、キャシーの瞳の中にはあった。 分かっていても、私はなんと言って自分の気持ちを言ったらいいのか分からなくて、 ただチーズ鍋の中で、パンを泳がせては、口の中に放り込んでいった。 舌の上で、チーズの濃い味がじんわりと広がっていく。 キャシーも私と同じように、カクテルをこくりと飲むと、 たっぷりとチーズをつけたパンを、薄紅色の唇の奥へと運んでいった。 「やっぱり、アカリの作ったチーズはおいしいね。この味、私好みなの。」 「よかった。最近、日がよく照ってくれて、毎日放牧が出来るから、あの子たちの機嫌がいいの。 ストレスのあるなしって、やっぱりミルクの味に響いてくるから。」 「そっか、なるほどね。うん、おいしい。」 その日、私たちはとりとめのない話をして、笑いながらチーズフォンデをお腹いっぱいになるまで食べた。 酒場に行かなくなった私にとって、キャシーが話す酒場の話は私の心を軽くさせてくれた。 チハヤのことを考えずに、その話を聞いていると、私は前の自分に戻っていけるような気持ちになれたのだ。 キャシーは私にチハヤのことを聞いてこないし、チハヤの話もしなかった。 私もチハヤのことを離さずに、チハヤとマイの話は二人の中でしゅわしゅわと消えていっていた。 こんな風に、私はゆっくりとチハヤのことを遠くにいる人物のように捕らえることができるのだろうか。 いつか、キャシーが酒場の話の中に、チハヤの話を混ぜて語っても、笑って軽口がたたけるくらいに。 いつまでも、自分を甘やかしてはいけないと、頭の中で思っていた。 だって、もう、チハヤは前に進もうとしている。私との関係を終わりにして、新しい道を進み始めている。 私だけが、ぐずぐずと道に上にしゃがみこんでいるのは、なんだかかっこ悪いし悔しかった。 キャシーの話を聞いて、笑いながら、私は早く酔ってしまいたかった。 カクテルの甘酸っぱさを、舌で転がしながら、 甘くなった頭の中で、私は精いっぱい優しい言葉を自分自身にかけてやりたかったのだから。 |