最近、彼と出会ったときのことばかり思い出している。




初めて会ってから、半年くらいはずっと、店員と客。そんな関係だった。


それに接客は主にキャシーの仕事だったから、

私が酒屋を訪れても、言葉を交わすことは少なく、目が合ったら会釈するという程度だった。


そんな関係だったのに、今思えばこうして男女関係が発展したことの方が不思議だった。

別れてしまうというのは、当たり前で、女神さまの采配だったのかもしれない。


そう思えるくらい、私たちの関係は、つぎはぎをしたつたない布のように、蜘蛛の糸の上で震える雨の滴のように、

頼りなく、今にも消えてしまうようなものだったのだ。







そんな言い訳にも似てる考えを頭の中に思い浮かべながら、

私はぼんやりと日々を過ごしていた。



もやもやとした気持ちを抱えたまま、私は仕事をたんたんとこなした。

まだまだ牧場を始めたばかりで、ご飯もまともに作る余力さえなかったあの頃と違って、

今は大分自分の手で料理を作れるほどに仕事に慣れて落ち着いていた。


それでもチハヤと付き合っていた時は、彼の働いている酒屋に頻繁に顔を出したり、

家で彼が作った創作料理を食べたりしていたから、自分で作ったご飯なんて、

簡単な朝食だったり、ありあわせの炒め物ばっかりだった。



仕事も一段落して、さてご飯でも作ろうかとキッチンに向かった時、私は一番にチハヤのことを思い出した。


不思議なことに、

チハヤと離れてからの方が、ずっと一緒にいたころより、私はチハヤの良い所を思い出すことができた。


おいしくて温かい料理をいつも作ってくれるところとか。

私の頬に触れたときの手の優しさとか。

笑ったときに、子どものように幼い顔になるところとか。



チハヤの紫の瞳の中に、自分の姿が見えるだけで、ああ私はこの人のことが好きなんだなって、そう思った。



思い出すたびに、私は何度もチハヤの顔が見たくなった。チハヤの声が聞きたくなった。

彼はもう、決して私のことを向いてくれないのだろうか。

もしかしたら、私が会いに行けば、またあの私を幸せにしてくれる笑顔を見せてくれるかもしれない。




そんな儚い望みを頭に思い浮かべると、決まってあの時のチハヤの瞳の冷たさを思い出した。


氷の結晶をそのまま瞳の中に納めてしまったかのように、冷たくて鋭い、

私の心をえぐるには十分な瞳だった。

私はチハヤの、瞳の温度が変わるだけで、優しく幸せにもなれるし、冷たく傷つくこともできるのだと、


そう感じた初めての瞬間だったのだ。





そういえば、私は最近町や農場にさえ寄りついていなかった。

もしかしたら、買い出しに出かけたチハヤがいるかもしれない。

仕事の行き帰りにばったり出会ってしまうかもしれない。


そんな考えが頭の中にちらついて、私の足を臆病にさせた。





どうにか、畑で出来た作物の種から新しい苗を育てたりして、

私は農場に行かないようにしていたのだけれど、

困ったことに肥料とはちみつ、とりのえさが底をつきそうになっていた。


こればっかりは、自分でどうにかできそうもなく、私は拒む足に言い聞かせて、仕方なく買い物の準備を始めた。



準備する手足がひどく重く、のろのろとしか動かない。

ああ、なんで私はこんなに弱いのだろう。




買い物かごを持つと、二人でよく買い物に行ったことを思い出した。

私が手に取った果物を見ながら、彼はよくおいしい食材の見分け方を教えてくれた。



財布を持つと、二人で買おうと夢抱いていたものを思い出した。

テーブルクロス、ティーセット、トイレの壁紙、新しいテレビ、ダブルベッド。



農場の方角に向かう。

よく彼と出会った道。二人で歩いた道。


今、一人で歩いている道。






農場までの道のりで、私はチハヤに会うことはなかった。

農場で肥料を買い、牧場にも顔を出して、目当てのはちみつと鳥のえさを買い、帰路についたときも、

あのオレンジ色の頭を見つけることはなかった。







どうしてだろう。



胸がちくちくしている。




会いたくなかった。

どんな顔をして会えばいいのか分からないから。



きっと、泣いてしまう。変な風に笑ってしまう。どうして帰ってきてくれなかったのかと怒ってしまう。

そんなすべての感情がごちゃごちゃになって、

私は、自分自身がどうなるか分からなかったから、怖かった。とても、怖かった。


だから、絶対、会いたくなかったはずなのに。



どうしてこんなに胸がちくちくしているのだろう。


すかすかとした心臓に、冷たい風が吹いているみたいだった。




泣きたい。泣けない。涙が出てこない。

痛いのに、声にならなかった。

叫びたかったはずなのに、私はただ黙りこくっていた。



分かってなかった。分かっていたはずなのに。






本当は会いたかったのだ。チハヤに、会いたくて会いたくて仕方なかったのだ。


どんな顔になったって、どんな態度をとるか分からなくて、パニックになってしまうかもしれなくても。

それでも、あのオレンジ色の頭をもう一度みることができたら、それでかまわなかった。


あの紫の瞳の視線を、私の瞳の中におさめることができるのなら。

もう一度、声が聞けるのなら。



ぴゅーっと、風が吹いている。冷たい。寂しい。悲しい。


私は自分の心臓に手をおいた。

小さな痛みは絶えず、私の心臓に突き刺さっている。




どうしたらいいの。どうすればよかったの。




追いかければよかった?もう一度冷たい瞳にさらされるのを分かっていながら。


それでも、追いかければよかった。彼を失うくらいなら。



分からなかった。出会ってから付き合って、彼がそこにいることが当たり前になっていた。

砂時計の砂がさらさらと落ちていくように、私の彼への愛情はどんどん大きくなっていた。

もうひっくり返せない。またゼロになんてできない。



それなのに、私はあの時動けなかった。ただ、彼が戻ってくることだけを待っていた。



どうしたらいいんだろう。私は、どうするべきなんだろう。








身体の中にある細胞がすべて生まれ変わった時に、

こんな弱い自分も、生まれ変わったらいいのにって思う。








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