私はチハヤが出て行ったドアを見つめながら、

チハヤという三音の言葉を、何度も何度も頭の中で繰り返し唱えてみた。



「チ」も「ハ」も「ヤ」も、なにも感情のないただの音であるのに、

どうして三つ合わさったら、こんなにも私の興味を惹きたてたのだろう。

あの頃の私にあって、問いただしてみたかった。あの時私は確かに、その三音が、

柔らかな色合いを持ち合わせた、とても神秘的なもののように、聞いていたのだ。





チハヤと付き合い始めてから、私は彼のことを「チハヤ」と呼ぶだけで、とても満足していた。

あるで、かがやく作物のあの完璧なつやめきを目にしたときのように、

私の耳はその三音を聞くためだけに、息をひそめている。




私は抜け殻のようになった耳をかばうように、手の平でそっと両耳をふさいだ。


もしも耳に涙腺がくっついていたなら今頃は、

涙一滴さえ頬に転がさない瞳のかわりに、はらはらと滴を落してくれるだろう。




私は誰もいなくなった部屋の中で、途方に暮れるしかなかった。

ここは私の家であるにもかかわらず、部屋全体がよそよそしく感じられて、

歪んだ空気の層に混ぜられて押しつぶされるような感覚が、私の肌にぴたりと吸いついていた。



チハヤが仲直りをしようと言ってきてくれる、

角砂糖よりも甘い想像をしながら、

すり減ってしまうのではないかと思うくらい、ドアを見つめていた。



やがてそんなことをしていても、チハヤが戻ってこないことにようやく気付き、

私はふらふらとキッチンの方に向かった。

彼を追いかけることさえできなかった私の足はすっかりすくんでいて、

ふらふらという言葉にぴったりの動きを見せてくれた。




冷蔵庫の中には、昨日採ったサクランボがボール一杯分入っていた。

今日チハヤに渡そうと思っていたサクランボたちは、

とてもじゃないけれど一人では食べきれなかった。



私はボールごと流しに持っていくと、水でざかざかとサクランボを洗った。

水に触れてつやりと光ながら、サクランボは私の手のひらで暴れていた。

私のツメはサクランボを傷つけまいと、息を押し殺していたし、

日焼けした柔らかな肌は、サクランボを包み込もうと、より一層柔らかくなろうとしていた。



半分に切ると、サクランボから果汁がじわりとまな板にかかった。

何個も何個も切っては、まな板を染めていくサクランボを見る私の目は、きっと死んだ魚みたいな目をしている。



サクランボ、砂糖、赤ワイン、レモン汁。


チハヤが入れていたような手順で、鍋に材料を入れていく。

くつくつと煮たつ赤に近い色たち。



バター、強力粉、薄力粉、冷水。

ボウルに入れて、混ぜていく。

ゆっくりと混ざり、新しい形を作っていく食品たち。



チハヤの手を思い出す。

思ったよりも大きくて、色白で骨ばった手、短くて薄い桃色の爪。

チハヤの手は、優しく料理器材を扱い、魔法のように様々な形に変えていってしまう。


私の手は、チハヤの手を思い出して、同じように真似しようとしても、

どうしても不細工でぎこちない動きになってしまう。


彼の美しい動作を真似しようと思うことさえ、おこがましいことなのかもしれない。



チェリーパイの生地をオーブンに入れて、私はそれが焼きあがるのを、ぼんやりと待った。

待っている間中、チハヤのことを頭の中で思い浮かべていた。




どうしたらいいのか、分からなかった。




笑ってしまいそうになる。



チハヤのことを一番分かっていたはずなのに。

一番、ずっと傍にいたはずなのに。


きっと誰よりも分かっていなかったのだ。





焼きあがったチェリーパイは、

私にしてはすばらしいという言葉を使っても許される出来栄えだったのだけれど、

てらてらと光るサクランボのつやめきも、ほくほくと湯気をあげる黄金色のパイ生地も、

チハヤが作ってくれたチェリーパイの足元にも及ばないと思った。




彼が作ってくれたのは、3か月も前の話だというのに、

私は今でも、チハヤが作ったチェリーパイの姿を、

鮮明に瞼の裏でよみがえらせることができた。






きっと私は、彼の名前に引き寄せられただけの、愚かな蝶なのだ。


すっかり空の色に溶け込むことも、背中の羽の動かし方を忘れ、

ちらちらと光っていたリンプンを払い落してしまい、もう二度と飛ぶこともできず弱っていく、

愚かで小さな、醜い蝶なのだ。




チハヤという花が花弁をとじてしまった以上、ただ弱ってうずくまっていくだけの、小さな存在でしかない。







チェリーパイを見つめながら、わたしは両耳をそっと両の手で押さえた。



きっといまに、ほろほろと涙が落ちてくるだろうから。








 back