好きな食べ物はチェリーパイ。



その味を舌で確かめるよりも前に、チェリーパイの名前に引き寄せられた。

チェリーパイという言の葉を紡ぐときの、唇の動きや、軽やかな音のリズム。

聞きなれない言葉に寄せる、ささやかな興味。


それから、姿を見て、一瞬で虜になってしまったのだ。

口に入れて確かめるまでもない。きっと、私の大好物になる。

そう、まるでそれは、一目惚れのような感覚だった。




今思えば、彼もチェリーパイと同じだったのかもしれない。






初めて出会ったとき、彼と私は、ただの酒場の料理人と客だった。


慣れない仕事の連続で、精神的にも身体的にも弱っていた私は、

残された体力で、自分のためだけに、料理を作る気にはとてもなれなくて、

こっちに来てからすぐに仲良くなったキャシーが働いている酒場に、よく足を向けていた。


その日は特に、とにかく色々と試してみようと思って、新しく手に入った種を植えるために畑を大きくしたので、

クワを振りおろしていた腕や足が、ひどく重たかった。

酒場の椅子に腰をかけた途端、泥のように溶けてしまうのではないかと思ったぐらいだった。




港が開港していないせいで、

良いお酒はほとんどないんだよとキャシーは残念そうに眉を下げていたけれど、

それでも仕事終わりにお酒が飲めるのは、私にとってとても有難かった。

お酒のグラスを口に運ぶたびに、泥のように沈殿していた腕や足が、

ふわふわと浮遊しているような感覚になっていくのが好きだった。


そんな感覚になると決まって、キャシーが飲み過ぎるなよ、とグラスを取り上げたりするのだけれど、

それまでの時間が、きつかった一日の中で、一番楽しい時間だった。




「じゃあ、そろそろ帰るね。ごちそうさまー。」


カクテルを二杯空けて、ほろ酔いですこしふわついた気持ちで、私は財布の口を緩めた。

キャシーはこくりと頷くと、私の空けたグラスをテキパキと片づけてくれた。




「チハヤ、お会計お願い。」



キャシーはよく通る声で、チハヤに向かってそういうと、頼まれた本人は無表情に頷いた。

明るいオレンジ色の髪の毛が、ふわりと小さく揺れた。


そういえば、

料理にかかわる仕事以外は、たいていあんな顔をするんだ。さすがにお客さんを前にしたら笑顔だけどね。

とキャシーがこっそり耳打ちしてくれたのを、私は頭の片隅から思い出した。




まるで、彫刻みたいだなと思った。


きれいで整った顔つきだからではなく(いや、きれいな顔つきをしているのだけれど)

ぴくりとも動かない彫刻作品のような一面を、彼はお客である私の前でも崩さなかった。


そりゃあ、目が合ったときや、お客さんに声をかけるときは、にこりと笑ってくれるのだけれど。

なんだか彫刻な表情の一面を見た後に微笑まれたりすると、

ぱっと魔法から覚めたみたいにいきなり動き出した像のように思えて、

心の中にびっくりしてしまうときもあった。


(かなり失礼なことをいっているって分かってる。でも、本当にそう見えてしまうのだもの。)



「お会計1260Gね。」

チハヤは骨ばった指ですっと会計紙を引き寄せると、薄くやわらかな唇からたんたんとそう言った。

斜め下を向くチハヤの睫毛が、証明に反射して透明に近い金色に光った。



浮ついた頭でぼんやりとチハヤを眺めていたもんだから、少し反応が遅れてしまって、

ちらっとチハヤに見られた。

「あ、うん。」


私は変に慌てながら、財布から1500Gを出した。


「240Gのおつりです。」


ちゃらりと6枚の小銭が手の中に降ってくる。

一瞬チハヤの指が私の手のひらに触れた。

なんでもないただの偶然の触れかただったのに、どうしてかその一瞬を覚えている。



「ごちそうさま。おいしかったよ。」

「あー、どうも。気をつけて帰りなよ。」


「うん、おやすみ。」


なんでもない挨拶を交わして、後片付けをしているキャシーの方に手を振って、私は酒場を出た。

すっかり真っ暗になってしまった町の中で、ちらちらと光っている星がひどく多くて、大きく見えた。





「ねえ。」


よし家に帰ろう、そう思って足を踏み出した途端に後ろから、さっきまで聞いていた声が聞こえた。

振り返ったら、チハヤがドアのところに立っていた。



「牧場でいい食材が作れたら、ぜひうちに届けてほしいんだけど。」


私はぱちぱちと瞬きをした。

彼のような透明でも金色でもない睫毛が、ひらひらと目の前を舞った。



「ねえ、聞こえてる?」

チハヤが怪訝そうにそう尋ねた声で、私ははっとなって、反射的にこくこくと頷いた。


「う、うん。いいよ。まだまだ先の話になるかもしれないけど。」


「ありがと。期待してるから。」


「じゃあ、じゃあね?」

「うん、おやすみ。」



ふっと、チハヤの姿が酒場の中に消えていく様を見届けてから、私はくるりと家の方に身体を向けた。

チハヤとの会話は、初めて会ったあいさつの時以来、一番って言えるくらい今日は多かった。

それぐらい、私たちはあいさつ程度の間柄だった。



対して仲良くもないのに、帰り道はチハヤの声が耳の裏にぴたりとくっついたまま離れなかった。

どうしてそんなに今になって気になるのだろう。


お会計の時に、目が合って、初めて私はチハヤの瞳の色が、

葡萄のように鮮やかな紫色なのだということを知ったというのに。






初めて出会った時、


彼が自分の名前を口にした瞬間。

チハヤと紡いだその音を、頭の中で思い出した。

たった三文字で、ひとつひとつの音は、聞きなれて、使い古した音たちなのに、

その音たちが集まった三音は、初めて聞くリズムで、とても新鮮で不思議な音たちだった。





頭の中に残る、チハヤという言葉を思い出しながら、私は自分の口の中でチハヤという言葉を作った。

音にこそは出さなかったけれど、それだけでなんだか十分で、

胸の中のとつとつという音が聞こえてきた。







好きな食べ物はチェリーパイ。



その味を舌で確かめるよりも前に、チェリーパイの名前に引き寄せられた。

チェリーパイという言の葉を紡ぐときの、唇の動きや、軽やかな音のリズム。

聞きなれない言葉に寄せる、ささやかな興味。






ああ、きっと。


私はチハヤに対しても、そんな感情を抱いてしまったのだ。











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