ぐるぐる、ぐるぐる。


頭の中が、回る。そしてときたま、ちかりと光る。

それは、言葉にならないものだったり、真っ白な紙のような色だったり、

はっと思い返すキリクとの思い出だったりだ。

それらすべてが混ざり合って、ぐるぐると回っている。



あの、瞬間。

私は、なんと言ったらよかったのだろうか。

漠然とした中で、最後に言葉として出てきたのは、そんな疑問だった。

長い間、きっと誰よりも、声が出ない代わりに、向き合ってきた言葉たちなのに、

どうして私は、なにひとつ、言葉を生み出すことが、出来なかったのだろう。


震えた指の先は、ペンを持つことさえ、できなかった。

キリクの目の前で、指で支えきれなくなったペンは、吸い寄せられるように、地面に落ちてしまった。

地面に落ちた瞬間、私の睫毛が小さく震えたけれど、

しゃがみこんで、ペンを拾い上げることで、キリクに見られることはなかった。


よかった。

目が合ってしまったら、きっと私の涙は止まらなかったから。


彼との間に生まれてしまった気まずい空気を消すことができないまま、

ついに私は一文字の言葉も生み出すことができずに、

まるで逃げるみたいに、キリクの前から去ってしまった。




それからぐるぐると、不毛な言葉にならない言葉たちが、私の頭の中で回っている。

それは言葉という形になるまえに、ぐにゃりと曲がってしまったり、

頭のどこかに溶け込むように、ぱっと消えてしまったりしてしまい、何一つすっきりとしなかった。

けれど気持ちを切り替えれないまま、いつの間にか生活の隙間を縫うようにして、

不毛な言葉たちは絶えず、私の頭の中を回り続けていた。



最後まで言葉たちを探し尽くして、そして初めの気持ちに私は戻った。

くるくると回る中で、なにか見落とした言葉がひょっこりと表れるのではないかと思って。


あの時、そうあの時。

私はなにか、メモ帳に書くべきだった。

幾万もの文字たちを、私はキリクと交わしてきたのだから。

彼の想いを、私たちの一番の意思疎通の形を通して、受け止めてあげるべきだった。


でも、でも、でも。

くるくると頭の中で回転が始まる。

考えても、考えても、何度、あの場面を思い返しても、

あの時、彼に、なんと言葉を書けばよかったのか、私はさっぱり思いつかなかった。


ただ、はらはらと、

二人の思い出が頭の中で、まるで花びらのように舞っていくだけだった。



私はぼんやりと、牧場の仕事を済ませると、(それはいつもよりもとんと遅く、失敗ばかりで散々だった。)

牧草地に、身体を投げ出した。頬に、青々と繁った葉の先があたる。


どこかにいって、考えを整理する気にもなれなかった。

牧場を一歩出てしまえば、キリクに会う確率が増えてしまう。

彼に会っても、私はあの瞬間を繰り返すのだろうか。

そして私は、キリクとの間で、一ページも会話をすることができなくなってしまうのだろうか。


そんなのは嫌だ。

でも、なんといえばいいのかわからない。


ぐちゃぐちゃする。自分の気持ちがわからない。

気持ちを表す言葉たちはいつも、すっと手を伸ばせば届くところにあったはずなのに。




腕で、目を覆った。

視界がいくらか暗くなる。目を閉じても、眩しい日の光がちらちらと光り、真っ暗にはならなかった。

どれくらいそうしていたか分からなかった。

腕がじーんとしびれてきたころ、肘のあたりをとんとんとつつかれた。

牧草の先にしては確かな感触を感じて、私はちょっと腕をずらした。

しぱしぱする視界の中に、明らかに人の形をした影が、目の前に映った。



はっ、とした。


ああ、まだ会いたくなかった。

ぐるぐるとまわり続けているくせに、私の頭は何一つ言葉を見つけれていなかったから。



けれど確かに、いま目の前にいるのは、キリクだった。








どくん、と心臓が大きく揺れた。



ぴりぴりと、まだ小さく震えている。私は思わず、胸に手をあてた。

ゆらゆらと、視界が揺れている。

たとえ、ぼやぼやとした輪郭でも、キリクだと分かる。ちょっと眉をゆがめて、困った顔をしている。



ああ、どうしよう。

まだ一文字も、彼にかける言葉が思い浮かんでなかったのに。


牧草の中に立っているキリクの姿が、だんだんとはっきりし始めたころに、

キリクからそっと、紙切れを見せられた。端が、びりっと破れている。

私が、うじうじとメモ帳を出すことができないことを、キリクはしっかりと分かっていたらしい。



『この前は、驚かせてごめん』


キリクの文字だ。まっすぐで、少し大きい。

ちょっと、かすれた所とかあるのは、書くのが早いから。

でも、雑じゃなくて、読みやすい。



彼の瞳を見ることができなくて、キリクの文字だけを見つめていた。

私は、文字を見つめたまま、首を横に振った。

メモ帳を取り出したいっと思ったけれど、指の先が動かなかった。

ただ、小さくと震えただけだった。


キリクが、私に視線を向けたまま、腰を下ろした。

私の視線は、一度うろついたけれど、伸びすぎた牧草からキリクへと、視線を向けた。

けれど、瞳を真正面から見ることができず、キリクの顎のあたりを見ていた。


キリクの手の平が、差し出された。

ちょっと眉毛を上げて、促される。

な?っと言われてるみたいだった。



キリクの口の柔らかな動きで、私の指はやっとメモ帳の端を掴んだ。


指の先の動きが緩すぎて、メモ帳がするりと、指の間から離れていった。

あ、と思う前に、キリクがメモ帳を拾ってくれた。



ふっと、視線が合う。


キリクの瞳は、どこまでもまっすぐで、そしてどこか柔らかだった。

まるで、キリクが書く文字みたいだ。

その柔らかさに包まれ、私はその中で、ただ眠っていればいい。

そう、思ってしまいそうになる。




キリクはメモ帳をめくった。一ページ一ページ。

私は、キリクとのメモ帳での会話の断片を思い出していた。




『チセ』



二文字。名前を書いてくれた。


その文字を見た瞬間、私の胸の中で、ぱっと、なにかが光ったような気がした。



ああ、そうか。

どんな文字を綴ればわからなくなった時、

メモ帳の中で、幾重にも重ねたキリクとの会話を思い出せばよかったのだ。

そして、ゆるりと、キリクを受け止めるだけでいいのだ。




私は、小さく笑いながら、首を少し傾げた。

今にも泣きそうな顔に、なっていなければいいのだけれど。

キリクの瞳がちらちらと太陽の光に反射して、光っている。


私はキリクの手から、メモ帳を受け取った。

ポケットから、いつも持ち歩いているペンを取り出す。

ふるりと、まだ指先が震えているような気がした。


でも、よかった。文字にまで、その震えは伝わっていなかった。


息を吐く。吸う。肺の中が、新しい空気で満たされる。

文字をたどる。視線はただ、真白い紙に注ぐ。



『キリクのこと応援してる』


そう、ただ、それだけ。

たったそれだけの言葉を綴るのに、私はうじうじと手足を縮めて考えていた。

キリクとの思い出が、私の独りよがりな想いが、私を殻の中に閉じ込めた。


書いてしまえば、なんてことのないただの文字のようにも見えた。

けれど、私の精一杯の言葉だった。




視線がもう一度、合う。

ふっと口角が上がる。ありがとうと、キリクの瞳が言っているように感じた。


私は、答えが知りたかった。肌がぴりぴりする。

まるでキリクが、細く長い糸の上を綱渡りしているみたいに、私は緊張しながら彼を見ていた。


キリクは、ふたたびペンを走らせた。



『考えてる』


残るべきか、行くべきか。


キリクの表情は固く、

彼の眉は、意志を固めきれない己をたしなめようと、きりりと頑なにまっすぐだ。


そう、っと私は、ちょっと頷いた。


肌のぴりぴりは、収まらなかった。

言葉が紡げるようになっても、キリクが遠くにいってしまうかもしれない不安が消えないままで。

私の心臓は、締め上げられたかのように痛かった。



私は、心臓の痛さにたまらなくなって、ペンをきつく握りしめた。

もう、会えなくなるかもしれない。

そう考えただけで、心臓の締め付けは強くなった。


いっそのこと、好きだと、気持ちを打ち明けてしまおうか。

この想いを文字に乗せて、伝えたら、キリクは遠くに行くことをやめてくれるだろうか。


ちょっと思った考えを、私は目を瞑って、打ち消した。


ただ、ハヤテはどう思うのだろう。と頭の隅で、考えていた。








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