叫びたかった。


人は悲しいことがあったり、嬉しいことがあったり、

腹立たしいことがあったり、驚いたりしたとき、

声を上げて、叫ぶことができる。



相手に、自分に、名をつけることができない感情が湧き上がっても、

なにかを思いっきり叫ぶことで、それを表現できるのではないだろうか。


私の感情を聞いて、と。


私は、お鍋の中で煮立てている、とろとろのスープをかき混ぜながら、そんなことを考えていた。

叔母さんに教えてもらったスープは、メモを見なくても作ることができる。

叫ぶことができない、感情を声に乗せて表現することができない私に、

叔母さんは、スープの作り方を教えてくれた。


鍋に入れるものは、なんでもいい。

人参でもジャガイモでも、トマト・バターや牛乳。

ホウレンソウやシイタケ、トウモロコシ。塩と卵だけだっていい。

ただ、心の中でくすぶるように潜んでいる叫びたい感情も、

一緒に鍋の中に、入れてしまうのだ。


どうして私は、耳が聞こえないの?もう取り戻せないの?

私の声は、どこに消えていったの?

あなたは何を考えているの?私のことをどう思っているの?


悲しい。寂しい。もう、前を向けない。

楽しい。嬉しかった。もう一度、会いたい。

腹が立つ。どうして?私にわかる方法で、教えてよ。



そういった感情の波をすべて、スープの中に溶け込ませてしまうのだ。


くるくると、かき混ぜる。


心の端にまで、沁みていた気持ちを落として、

スープの中で、ゆっくりと沈んでいくのを、じっと待っている。



私は、お鍋の中を覗き込みながら、心の中の感情を吐き出していた。


スープはもうすっかり、とろとろになってしまったけれど、

私の感情はまだ、スープの中に、沁み込んでいなかった。

鍋の底が、焦げで真っ黒になってしまっても、

私の吐き出したい気持ちは、すべてスープの中に、沁み込まないかもしれない。

色々な感情が混ざりあって、溶け合って、そして水蒸気の中に紛れ込んで、消えていく。そう、そうなればいいのに。



手が痺れるくらい、くるくるとおたまをスープの中で泳がせてから、

私はいくらやっても、自分の気持ちが落ち着くことがないのだと、やっと分かった。

茫然としながら、私は火を止めた。


次々と産み出されていた泡が消えてなくなり、一瞬世界が止まったのかと思った。

私は、焦がしてしまったかもしれないスープを、一口すすった。

けれどスープは、ちょっと驚くほど、どうしてか不思議なくらい、おいしかった。



舌の奥に、流れるように消えていったスープは、私の声帯があったはずの場所の横を、するりと通り過ぎていった。








*********************






ドアを開けたキリクは、おっと驚いたように、眉を持ち上げ、瞬きをした。

辺りはもうすっかり夜の顔をしていて、頬にあたる風は冷たかった。


両手が塞がっている私は、手に持っている鍋を、キリクに差し出すように、上に持ち上げた。

お鍋の蓋には、家で書いてきていたメモを貼り付けてあった。



『おすそわけ』


キリクの口角が上がり、彼は私に優しく笑ってくれた。

私の心臓の端を、誰かにいきなり触られたみたいな、締め付けられた気持ちになった。



『ありがとう。寒いだろ?中に入って』


ドアを押さえてくれているキリクの横を通って、私はキリクの家の中に入った。

部屋の暖かさが、私の肌にじんわりと伝わってくる。

キリクからメモ帳を受け取り、私はペンを走らせた。


『スープなの』

キリクの口角が、もう一度ちょっと上がる。


『一応、味見したの。失敗してないと思う』


『うまそうだ』


私の字のすぐ下に、彼は文字を綴った。相変わらず、書くのが早い。

キリクの表情に思わずつられるように、私も小さく口元を綻ばせた。


キリクは私からお鍋を受け取ると、キッチンの方に歩いて行った。

私も後ろをついていき、戸棚の中から二人分のスープ皿とスプーンを出した。


再度火がかけられ、お鍋からは小さな泡が、産まれては消えていくことを繰り返し始めた。

キリクが、おたまをくるくると、お鍋の中で泳がしはじめる。

私はその姿を見ながら、妙に胸がどきどきとしていた。


やがて、キリクは火を止めて、私に手を差し出してきた。

私はそおっと、キリクにスープ皿を渡す。

指の先が、はっと触れ合う。

一瞬のことだったけれど、まるで花火に触れたみたいに、私は思わず手をひっこめてしまった。


キリクは気にした風もなく、おたまでとろとろのスープを掬い上げると、私が渡したスープ皿にうつした。

私はただじっと、その姿を見つめていた。



二人でテーブルに座り、スープをすすった。

穏やかな時間が流れているように、私は感じた。

食事の時は、二人とも、メモ帳やペンに手を伸ばしたりしないから。

文字を目にすることもない、ただお互いの表情だけを確かめ合う沈黙の中で、

私たちは黙々と、スプーンを口に運んでいった。


キリクがおいしい、という表情を浮かべる。

私はそれだけで、たまらなく嬉しくなる。

このまま、ずっと。この時間を二人で味わっていたかった。

キリクがメモ帳とペンを使って、文字を生み出し始めた時、私はどんな感情を出すか分からなかった。

だから、ずっと。このままで。


でも、お皿の中に残っているスープはほんの少しで。

お皿の底が見え隠れするほどしか、残っていない。のろのろとスープンを運んでいたのに。

キリクはもうすっかり、スープを飲み終えて、おかわりまでしてくれていた。


ゆっくりと、確実に、食事の時間が、終わろうとしていた。

私は一瞬よりも少し長く、目を瞑った。






『ねえ、キリク。お願いしたいことがあるの』


食事の時間が終わると、

キリクが言葉を綴る前に、私はメモ帳をとって、ペンを走らせた。

このメモ帳も、もう白紙のページは、いくらかしか残っていなかった。


キリクは、うん?と片方の眉を持ち上げた。


『なに?なんでも言って。俺のできることならするぜ』



さらさらと、文字が生まれる。

私はこの文字たちが、別れの言葉じゃなくて本当によかった、とそう思った。

つうっ、と辿るようにキリクの視線の先を捉える。


目が合う。小さく息を吐く。

私は、スープの中に溶け込ますことができなかった気持ちを、ペンの上に乗せて、吐き出した。





『あなたの声が聴きたい』



ぴたりと、キリクの手が止まった。

こちらを、そっと覗きこんでくる。かすかに眉をひそめて、戸惑っている表情を見せた。




『チセ   それは』


うん、そうだね。変なお願いだよね。

でもね、気持ちを伝える前に、一度してほしかったことだから。


『耳のそばで、名前を呼んでほしいの』



じっと、キリクを見る。

もしかしたら、断られるかもしれない。

そんなことして意味があるのか?って思われるかもしれない。



でも、私にとっては、とても重要なことだった。

キリクの瞳をまっすぐに見つめて、私はただ、彼の声を待っていた。









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