ぱらぱら、ぱらぱら。



ページがめくられていく。

文字の世界の中は、いつだってキリクとの会話が中心だった。




思わず、涙が転がり落ちそうになった。

どうしてなのか分からなかった。

たまらなく悲しいわけじゃない。胸が詰まるほど苦しいわけじゃない。

でも、ふつふつと沸いてくる気持ちを抑えることができなくて、なぜだかそれは、涙になって外に溢れようとしていた。



ぽろり、ぽろり、ぽろり。

涙と一緒に、この気持ちもどこかに落ちてしまえばいいのに。




ふらふらと、足を山の方に向けた。


トンネルはまだ開通していないので、

向こうの町に行くにもずっとこの山を歩いていたから、もう慣れた景色だった。


森の中で息を吸うと、

ぐちゃぐちゃの気持ちもなんだか、ちょっとだけ落ち着くような気がした。


息をつく。小さく。

きっと音が聞こえてる人たちにだって、聞こえやしない。


さまざまな緑色の顔を見せる木の葉や草の葉の色がまぶしかった。

きつく濃く、目に飛び込んでくる。きらきらと光っている。



頭の中で、ぱらぱらとキリクとの会話がめくられていく。

言葉は私にとって、目から得られる文字だ。音じゃない。

瞼の裏に広がっていく文字の世界の中で、私とキリクはいつもぷかぷかと浮いていた。


居心地がいい世界の中で、私はいつもキリクの文字を見ていた。

彼の文字のくせは、他の誰よりも知っている。





頬にあたる風が、冷たかった。

メモ帳もペンも持たずに、家を出るなんてほとんどないことだったから、身体の芯まで心細くなっていった。



ずっと、言葉の世界の中でぷかぷかとたゆたっていた。


ペンと紙がないと成り立たない私の世界の中は、いつもどこかぼやけていて、くるりと曲がっていた。

私の人生も、こんな風にくるくると巻かれていって、どこかに置き忘れてしまうようなのだろうかと、

ふと考えたときに、ひゅっと胸の中に冷たい氷が落ちてきたみたいになった。それは、冷たくて怖い想像だった。



そんな人生にしたくなくて、少しでもジタバタとあがきたかった。

私はここにいる!と、より広い世界の中に立って、大きな声で叫びたかった。



それなのに、それなのに。


いつの間にか、私の大きな世界はキリクになっていた。

ページが蓄積されるごとに、キリクとの会話が埋まっていく、文字の数だけ、私はキリクに惹かれていった。



これが、いいことなのか分からなかった。

でも、私の小さな世界が、どんどんちょっとずつ、大きくなっていくように思えた。




森、木、草、空、土、空気、光、水。

手に触れる、触れれない。伸ばす、伸ばせない。見る、見れない。


聞こえる、ううん、聞こえない。

でも、世界は確実に変わっていくし、広がっていく。


私の悩んでいたことなんてちっぽけで、広がっていく世界の中で、

見えるか見えないかわからないほどの小さな塊でしかないように感じられた。



いつの間にか、紙とペンがないことで感じられていた心細さから、

持たないからこそ抱く解放感や、どこまでもいけそうな冒険心が芽生えてきた。


気持ちよかった。自分が勝手に作っていた鎖から、やっと放たれた気分になった。



たまには、こういうことをするのもいいのかもしれない。

まるで肌みたいに、ぴたりと離さなかった私の一部たちがいないことは、

私にあらためて、深呼吸させてくれることを思い出させてくれた。




隣町に続く道から少しずれて、私は小さな川が流れる場所まで下って行った。


釣りに来る人もあまりいなくて、一人きりになるにはぴったりの場所だった。

さらさらと緩やかに流れている川の姿は、きっと自分の気持ちを落ち着けることもできるはずだ。


川に近づいていくと、空気が変わる。水をたっぷりと含んで、潤んでいるみたい。

大きく息を吸う。気持ちよかった。

水をいつも吸収することができる、まわりの木々たちは、なんだか和やかでさわさわと楽しそうに揺れていた。


淀んだ気持ちが全部、払拭されていくみたいだった。



橋の下を抜けると、小さな滝がある。


そこを目指して足を向けると、見慣れた姿が滝のそばにいた。

しかも、私のちっぽけな悩みの元になった、彼の優しい視線を独占する彼女も一緒だった。



ああ、もう、どうして。


ほら、私はすぐ、彼の世界に惹き込まれてしまう。



私が驚いて、逃げ出してしまおうと後ずさりする前に、キリクは私の姿をとらえて、大きく手を振ってくれた。

足がすくんで、なかなか一歩を踏み出すことができなかった。

でも、キリクの怪訝な顔を見たくなくて、そろそろと足を前に出した。


キリクのすぐそばにいる、彼の愛馬の姿がいやでも目に入った。



今だけ、今だけは、この目も見えなくなっちゃえばいいのに、ってそんなことまで思ってしまった。





キリクは、のろのろと歩く私がすぐそばに来るまで、辛抱強く待っていてくれて、

私がいつものようにポケットからメモ帳とペンを出し始めるのを待っているようだった。


ちょっと申し訳ない気持ちが出てきた。


鬱々とした気持ちを払拭させるために、ここに来たはずなのに。

目の前に立っているふたつの影が大きくて、私を飲み込んでしまいそうだ。


それでも、触れた空気に中和されて、

私はふたつの影を見た瞬間、たまらなく泣き出したくなったりはしなかった。



それでもやっぱり少し震えるその手を、ポケットにそっと置いて、そのあとキリクの顔を見ながら首を横に振った。


キリクは、理解してくれたようだった。と同時に、私がメモ帳もペンも忘れたことが珍しいと思ったのか、

小さく笑って、頭をたたいてくれた。

あたたかい彼の手の平の温もりが、そのまま私の頭を通じて、私の心をほっこりと包んだ。


それからキリクは、愛馬の方に向き、私の顔をもう一度見て、大きくゆっくりと口を三回開いた。






『ハ ヤ テ』






うん、分かるよ。私はこくりとうなずいた。

初めて会ったけれど、あなたの瞳の色を見てすぐに分かったよ。


こんなにも輝いて、優しくて、暖かい瞳。


ハヤテがいるから、あなたはそんな瞳を優しく私にも向けてくれるんでしょう。



もやりとした気持ちが一瞬胸をかすめたけれど、でもこの二人の中に立とうなんて気持ちは沸いてこなくなった。

だって、私の方がハヤテよりも遅くキリクに出会って、二人の邪魔をしているのは私だもの。



ハヤテが鼻息を荒く、前足で川の水を掻いた。

大きな水玉の粒たちが空気に跳ね上がって、また川に吸い込まれていった。


キリクが少し驚いた顔をして、ハヤテの首を小さくたたいた。



しばらくハヤテの首をたたいて落ち着かせていたキリクが、

ちょっと驚いた顔のまま私の方を見てきたので、私は自分の手の平にキリクに見えるように指で文字をつづった。





『おこっているの?』


キリクは首を振り、私と同じように自分の手のひらに文字をつづった。

手の平の大きさの違いに、ちょっとドキっとした。




『チセのことが気になるみたいだ』




『また会いにきてくれよ。そうすれば、ハヤテもチセと仲良くなれると思う。』


私は、ちょっと驚いて瞬きをしながら、こくりとうなずいた。


キリクの瞳に溺れてしまって、うなずかされたといった方が正しいかもしれない。





バイバイと手を振るまでの時間が、ゆっくりと感じられた。


まるで世界の中心がこの場所になったみたいだった。


すぐ近くにいたキリクの姿。彼の体温を感じれそうだった。

キリクの話に聞いた通りの姿で、私の前に現れたハヤテは、まるでおとぎ話から出てきたみたいで、

キリクとハヤテの絆のつながりが、私にはしっかりと目にできた。


それでも前みたいな、ただもやもやとした気持ちを心に宿すことにならなかったのは、

ハヤテの足が、大きな水玉を空気の中にはじき飛ばしたからなのかもしれない。



ハヤテも私のことを気にしてくれている。


ちっぽけな私の悩みは、ほんとうにちっぽけだった。



ハヤテと仲良くなること、もっと知っていくことで、

私には私のキリクのつながりをメモ帳とペン以外にも見つけれることができるかもしれない。







ああ、わたし。



キリクが好きだ。大好きなんだ。





ずっと心の裏にひっついて離れなかった塊をゆっくりと溶かしてあげたら、

こんなに正直に、まっすぐに、キリクのこと想うことができるようになった。




この気持ちを大事に抱いて、私はキリクとハヤテと付き合っていけばいい。


そう、思えることができた。













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