想いが弾けてしまうと、すっと気持ちが楽になるのだと、私はその時、初めて知った。 どうして、私がハヤテの存在を気にして、キリクに近づくのを拒みそうになったのか、 なぜ、言葉の一部であり、私の肌の一部となったメモ帳とペンを置いて、外の世界に身を投げ出したのか。 気持ちの膨らみ、その意味を知ったとき、初めて私は私自身の気持ちの変化に気付いたのだった。 今まで、淡い恋心を抱いたことはいくつかあったのだけれど、 こんなにまっすぐに、激しく一人の人間に対して、感情を抱いたのは初めてだった。 それは、奥深くに潜んでいた、水の粒をそっと、掬いあげたような感覚だった。 と同時に、胸が焦がれて苦しくなるような感覚も伴っていた。 そしてそれは、上手に私の中で共存していた。 良いとか悪いとか、そういう話ではなくて。 キリクと、そしてハヤテという新しい登場人物に対して、私なりの適応をすることができたということなのだと思う。 それは、これからキリクと、今の関係を続けていくにはとても重要なことだった。 そして、私の中の気持ちに整理という形で、私の感じた新しい感覚たちは、 本当に、びっくりするくらいすんなりと、新しい位置づけとして、うずくまることができた。 馬小屋のにおい。 柔らかな藁、馬の毛や汗、板や床の古くたたずむ木、こびりついた糞尿のにおい。 混ざって混ざって、何がなんのにおいか分からなくなる中に、かすかにキリクのにおいが混じっている。 ちょっと暗く感じる小屋の中、でも暖かい。 数頭いる馬たちの顔を、一頭一頭見ていると、優しい気持ちになってくる。 すぐ近くで感じられる、馬たちの息遣い。 空気が緩んで弾んだり転がったりしている。 初めは、馬の鼻先の手を近くにもっていかないと分からなかったけれど、 空気に乗って伝わる振動で、私にもちゃんと、彼ら彼女らの息遣いが伝わってくるようになった。 ハヤテは、はじめ私が入ってきたときは、興奮して少し荒っぽい振動を私に伝えていたけれど、 私がじっと、まるで馬小屋の空気の中に溶け込むみたいに、佇んでいると、 やがて、ゆっくりとした落ち着きのある呼吸を、取り戻したようだった。 私がキリクに抱いている感情を、ハヤテは私と初めて出会った川の場面で、もうとっくに理解していたようだった。 そのせいか、私がキリクの許可をもらい、馬小屋に顔を出すようになり始めたばかりの頃、 ハヤテはよく私の顔を見ては、興奮して足を動かし、鼻息を大きくした。 ちょっとずつ、本当にちょっとずつ、氷がゆっくりと解けていき、やがて透明な水になるように、 ハヤテは、私の存在を認めてくれるようになっていた。 息遣いや彼女の瞳の色の変化で、そのことが分かるようになってから、 余計にわたしはこの馬小屋に足を運ぶようになっていた。 何度か足を運んでいると、ハヤテがキリクに抱いている感情を、だんだんと汲み取れるようになってきた。 それは恋する気持ちが大部分を占めており、 その中で友人や恋人、そして母親のような感情も含んでいた。 もしも、 ハヤテが、馬ではなく、人として生まれてきていたのなら、きっとキリクは、彼女の手を取ったのだろう。 いいや、やはり違うのかもしれない。 たとえ、ハヤテがなに不自由のない美しい人の身体を持って、キリクの前に現れたとしても、 キリクは目を向けはするだろうが、そこから二人は恋に落ちるだろうか。 キリクだけではなく、ハヤテこそ、キリクに目を向けていただろうか。 ハヤテが馬だから持つ、この毛色や毛並、柔らかな四肢や暖かなまなざしを、 果たして、人として生まれてからも、備えることができたのであろうか。 ハヤテは、馬好きな少年の前に馬として生まれ、 そして馬だからこそ、馬として、 一番身近に、共に幼少期を過ごした彼に、恋心を寄せたのではないだろうか。 そんなハヤテの恋心を、私は慈しみ、そして尊敬の念を抱くことができる。 そしてそれは、キリクとハヤテの間だけにある特別な感情として生まれ育ったものだった。 その中に、ブツンとひきちぎってしまうように、私が入り込むことなど不可能としか言えなかった。 私は耳が聞こえず、一言も言葉を発することができない不自由な身体を持った、ただの人だった。 そしてたまたま、あの夜に、キリクの前に現れて、彼とメモ帳で文字の海を作り始めただけで、 そして勝手に恋心をキリクに抱いただけの、ハヤテにとってはそれだけの人なのだ。 だから、私はあくまで控えめに、空気に溶け込むみたいにハヤテのそばにいることにした。 ハヤテがキリクに抱いていた感情を、しっかりと汲み取ってあげれるように。 叶わないと、決めつけることなんて周りにはできないその恋とは別に、 私もキリクに恋をしていることを、ハヤテに伝えるために。 そんなことを考えながら、空気の一部になってハヤテの顔を眺めていた。 すると、肩に温かい手の温もりを感じた。 振り向かなくてもその大きな手の持ち主が誰なのか分かるけれど、私はふっと後ろを向いた。 私の行動に合わせて、キリクは彼の字が濃くはっきりと書かれたメモ帳のページを、 私の視線のぴったりの場所に、すっと差し出した。 『腹、減らないか?』 さっきまで、キリクとハヤテのことばかり考えていたものだから、 キリクのメモ帳の内容に、私はなんだかちょっとおかしくなって、 小さく笑いながら、大きくこくりとうなずいた。 |