#2 野菜カレー 人よりも明らかに注がれることの少なかった愛情の欠片を埋めるように、 既製品の味がするスーパーの味に早々と飽きてしまった僕は、 気付いたら料理に打ち込むようになっていた。打てば響く。それが単純に面白かったから。 お飾りの調理器具を持て余していた母親の代わりに、冷たくなったお惣菜をゴミ箱に捨てて、 自分のために料理を作った。 包丁は危ないからって止められることも、火を使うなんてまだ早すぎるとの忠告もなく、 干乾びた玉ねぎが鎮座する冷蔵庫の中を開けて、僕は僕だけのための料理を作っていた。 母親がそんな僕の姿に気付いた時に、特に咎められるわけでもなく、 髪の毛が邪魔そうね、って自分が持っていたヘアピンを、僕の前髪にすっとさした。 チハヤの顔って中性的よね、よく似合ってる。 そう言って笑う母親の顔を見て、投げられた言葉の意味も分からずに、 その時だけは馬鹿みたいに、素直に、 母親が自分との関わり合いの中で、笑ってくれたことが嬉しかった。 今、思い出したら、なんて失礼なことを子どもに向かっていうのだろうと、 胸が悪くなることもあるけれど、 今でも、うっとおしい前髪を切ることもせずに、ヘアピンをさしている僕は。 ただ単に、髪がまとまって便利だという理由をなぞらえて、 まだ、母の残像を求めているのだろうか。 バカバカしいって思う。 求めるほどの愛情も温もりも、与えられたことなんて、ただの一つもなかったのに。 でも、それでも。 顔もぼやけて上手く思い出すこともできない母の顔に、柔らかな光が当たるような、 あの記憶だけはきっと、 母のことを、母だと、一時でも感じた瞬間だったのだろう。 *** 肌を刺すような強い日差しが、ギラギラと地に注いでいる。 赤い宝石のように、まるまると太ったトマトの茎にそっとハサミを入れる。 茎から離れたトマトを手のひらで受け止めると、ずしりとした重みが感じられた。 手のひらに乗ったこの瞬間、種蒔きから水やり、肥料足し、支柱立てや害虫駆除など、 一つ一つの努力が報われたと、一番思える一瞬だった。 ふーっと息をつく。 朝から働き詰めだったので、じんわりと腰が痛くなってきている。 牧場の仕事も要領を得てきたので、畑を広げていったのはいいものの、 夏の日差しの強さに、まいりそうになる時がある。 硬くなった筋肉を伸ばそうと、ぐーっと腰を反らして伸びをする。 伸びをしたついでに放牧された動物たちを眺めていると、ふと果樹園に目が留まった。 緩やか風で葉を揺らすオレンジとリンゴの木は、苗木から若木に育ってきている。 はりきって作った果樹園を見に来てくれたタイム君に、果樹に良い肥料があるからと、 母親からの直伝なのか、いかにその肥料がよいかということをあたしの前で口上を述べて、 小さな彼が生き生きと宣伝するものだから、気付いたらつい財布の紐が緩くなってしまっていた。 なかなかいい働き手に育っていっているんだなと感心しながら、 あたしは、寂しい風が吹く財布の中身を頭の中で数えていた。 チハヤとの『交換条件』の夜ご飯は、まだまだ貧乏のあたしには本当に助かっていて、 山や海で採れた自然の恵みや牧場で育てた物だけで、 あたしの胃袋を毎回キャッチするおいしい料理がテーブルに並ぶ。 残った物を次の日に回したりも出来たので、、 宿屋やアルモニカでご飯を食べる回数が減り、食費がだいぶ浮かんでいた。 なんとか財布の紐が緩んでも、借金をすることなく牧場を経営していけるし、 果樹園や畑を広くすることも出来ていた。 チハヤは、アルモニカに出勤する前にあたしのところに足を運ぶと、 本日の収穫物を入念にチェックして、今日の夜ご飯を決める。 あっさりと決めることもあれば、一つ一つ手にとってじっと眺めて品質を確かめたりと、 真剣な眼差しであたしが育てた農作物や畜産物に目を向けている。 それはまるで鑑定士のような繊細な仕事で、 あたしはその間、ひゅっと息をひそめてじっと待っている。 溜息をつかれて、今日は何も作る気になれないねと言われないように、 あたしは一つ一つの仕事に力が入る。 ほぼ、毎日のように自分が作った物を真剣に見定められていると、それだけで気が引き締まるしやる気になる。 頑張った分だけ、その日のチハヤの料理に反映されている。 自分の汗にまみれた手で作ったものが、チハヤの手にかかれば完璧な料理になる。 その瞬間が、たまらなく幸せで、 自分の力で生きてると、教えてもらっているような気持ちになれた。 そろそろチハヤが来る頃だった。 あたしは、トマトやタマネギ、タマゴ、ミルク。塩やキノコ、魚、ラズベリーなど、 自分の牧場で採れた農作物や畜産物、山や海からの自然の恵みをどさりと机の上に並べた。 あたしは食材を並べ終わると、軍手から手を引き抜いてもう一度息をついた。 ある程度の出荷額を確保できたら、チハヤがすぐに料理に取り掛かれるように こうして今日の夜ご飯の食材になるかもしれない収穫物を机に並べることが習慣になっていた。 女子真っ盛りの乙女が、ほぼ毎日男性に料理を作ってもらいに通ってもらっているというこの状況って、 と親にいうにはなんとも恥ずかしい状況であるが、 この『交換条件』の甘い汁、チハヤの料理を毎日食べていると、いまさらやめれなくなってしまっていた。 まだ出てくる汗をタオルでふき取っていると、チャイムの高い音が部屋に響いた。 いつものように、ドアを開けるとチハヤが片手を上げて挨拶をする。 そっけない態度にもだんだんと慣れてきていた。 いつも、真白いシャツの後ろを見ていたころには想像できなかったチハヤの率直な受け答えや、 ずけずけと物を言うその言葉の山には、さすが厳しいマイちゃんの料理の先生だなって思うときもあるけれど。 それが、嘘で塗り固められた優しさでも同情でもなくて、 ただ、ただ、まっすぐにあたしの胸に響くから。 ああ、チハヤって正直だし冷たいし、口は悪いけれど、きっといい人だ。って思うようになっていた。 何よりも胃袋を掴まれているあたしにとって、彼の料理は絶対であり完璧だったから。 チハヤは、おざなりな挨拶を済ませると、さっそく机の中に並べられた食材に目を向ける。 初めて会った時にまるで葡萄のようだと思ったその瞳が、ずっとまっすぐな視線で注がれる食材たちは、 自分が一番あなたの料理にふさわしいですよ、と主張したいかのようにぴしりとした空気を作り出している。 「今日も相変わらず選びがいがあるね。」 チハヤの言葉に、きっと食材たちは嬉しそうに震えているだろう。 あたしは、ほっと安堵の息を吐く。 ああ、よかった。今日も認めてもらえて、と胸をなでおろしているとチハヤの瞳がすっとこちらを向いた。 「今日は何かリクエストでもある?」 あたしはその言葉に、ぱちぱちと瞼を震わせた。 「え、珍しいねチハヤ。いつも好き勝手に作っているじゃない。」 「言い方が失礼だね。お客さんのご希望も聞かないとね。」 まあ、僕の意見と一致すればだけどね。 なんて言葉も付け加えられている、さすがだなぁ。 「えっと…そうだなあ。暑い日が続いているから、なにかスタミナがつくもの、がいいかな。」 「スタミナねぇ…。」 チハヤは、もう一度食材に目を向ける。その視線の先を探して、あたしはチハヤの横顔を見つめる。 この瞬間が好きだな、とふと思った。 「ねえ、君って料理あんまり作らないんだよね。」 「前は、ちょっとはやってたんだよ。」 「本当?」 「ちょっとはね。」 「じゃあ、作ってみる?」 「へ?」 驚き二発目。 いったい今日のチハヤはどうしたのだろうか。 いつもキッチンに自分以外が立つことを嫌うし、料理のリクエストなんて聞かずに研究のために作っていたのに。 一緒に料理なんてこれから先一度だって訪れることはないだろうと思っていた。 「えっと、チハヤ?どういう風の吹き回し?」 あたしが、おずおずと言葉を空気に乗せると、チハヤはちらりとこちらを見て、 すぐに食材に視線を戻した。 「ただ、なんとなくね。ずっと料理が出来ないって困ると思うよ?」 「うっ、耳が痛いこと言う…。」 「料理って、食べることに直結しているからね。 僕がいないといつまでも食材を無駄にしているのって、ちょっと許せないし。」 ばっさりとあっさりと、至極真っ当なことを言われたあたしは、 残りのライフも少なくなって、チハヤに反論したりとかそんなこともちろんできず、 チハヤがこちらを見ていないのをいいことに、下を向いて分かったと小さな声で頷いた。 分かってる。 この『交換条件』がいつまでも続くことはないんだってことは。 でも、あまり直面したくなかった事実を、チハヤから真正面に言われたから、 あたしは、胸の端にある寂しいのか惜しいのか、よく分からない感情が浮かんできているのを、慌てて鎮めた。 あたしの小さな声でもチハヤの耳は上手く拾ったのか、 じゃあ決まりね、とたんたんと返事をしたチハヤは、食材を選び始めた。 トマト、タマネギ、キノコ。 机の上にあるものだけではなく、冷蔵庫を開けて、春の時にとっておいた野菜たちも取り出し始めた。 「ねえ、チハヤ。なに作るの?」 あたしは、いつも通りにたくさんの食材を次々と並べていくチハヤが、 あれ、もしかしてあたしも作ることを忘れている? え、いきなりそんなにたくさんの食材使うの?ハードル高すぎない? といろいろな考えを混ぜ込んで、おっかなびっくりチハヤの背中に質問を投げかけた。 「カレーなら、作ったことあるかなっと思って。スタミナもつくし、長持ちだし、たくさん食材を勉強できるよ。」 おっけー、確かにカレーなら作ったことがある。 一番初めに作ってくれたキッシュのような、とても家庭で手軽に作れるとはいい難い料理だったり、 名前も聞いたことのない難しい料理名を告げられなくて良かったと、 ほっと安心したあたしは、こくこくと頷きながら、チハヤから渡されたジャガイモを受け取った。 「洗って、皮むいといて。そこのニンジンとかタマネギも。」 分かった、と答えてあたしは洗い場に立った。 一つ一つ、水ですすいで泥を落としていく。うんうん、ここまでならあたしにだって簡単だ。 包丁とまな板を出して、あたしは野菜を並べた。 チハヤは鍋を出したり、何やらルーになるもの?を作ろうとしている。 「ねえ、どんな風に切ったらいいの?」 その横顔に、もう一度質問する。 「線維に対して垂直に。」 鍋から目を離さずに、チハヤは答える。 「線維?あ、そういうことか。」 あたしはタマネギの線維をたどって、垂直に包丁を当てる。 久しぶりに持った包丁は、あたしの包丁のはずなのに、 なんだかしっくりこなくて、きっと、チハヤの方がこの包丁が肌に馴染んでいる。 なんとか言われた食材をすべて切り終えるとチハヤを見た。 「できたよ。」 「うん、思ってたよりひどくないね。」 ちょっと失礼な言葉を投げ返されたけれど、自分でもそう思ってたから言い返すこともできず。 ま、まあね。なんてどもりながら答えてしまった。 「フライパン温めてあるから、野菜炒めようか。」 オリーブオイルが敷かれたフライパンに野菜を入れる。 じゅっと、小気味よい音が躍り出す。 焦がしてしまわないように、あたしは慎重に野菜たちの姿を見守る。 チハヤはもう一つのコンロでさっきから煮立てていた鍋のチェックもする。 まな板の上で野菜と格闘しながらちらりと見ていたけれど、 鍋の中には今日採れたてのトマトを入れていた。 「チハヤ、これくらいかな?」 あたしはチハヤの頭の中で計画されている料理が、一つでも狂わないように、 ぴりぴりしながらフライパンを覗いて、チハヤにチェックを求めた。 「うん、いいんじゃない?じゃあ、お鍋に移して。」 あたしはフライパンを持って、お鍋を覗き込んだ。 「わあ、きれい。」 お鍋の中には、きらきらと外の光に反射していたときのような赤色が主張していた。 つるんとした皮が溶けだしているのに、それよりも真赤にトマトが輝いている。 そんな中に色とりどりの野菜がお邪魔するのはなんだかもったいない気がしたけれど、 チハヤに言われたとおりに、そろそろとお鍋の中に野菜たちを落とした。 チハヤはさらに市販で私が買っていたルーとそれになにかを掛け合わせたものを (ほんとは見ておくべきだった。でも、それどころじゃなかった) 鍋の中に入れて、溶かしていった。 いい匂いが部屋の中に広がってくる。うん、カレーの匂い。 でも、いつも食べているよりも、ずっとおいしそうで、胃袋の虫が思わず鳴いて暴れ出しそうな、 そんな匂いだった。 完成した野菜カレーは、あんなに鮮やかだったトマトの赤はすっかり隠れてしまっていたけれど、 一口食べるだけで、今まで食べた中で一番おいしいカレーだった。 「すごい、あたしも参加したのに。こんなにおいしくなるなんて。」 あたしは、感動をそのままチハヤに伝えた。 チハヤは、カレーを食べると一回うなずいた。チハヤにとってはこれくらい当たり前の味なのかなあ。 あたしは感動した気持ちをそっと胸にしまいながら、チハヤが話始める言葉に耳を傾けた。 「今日は体験ってことで。今度レシピ持ってくるから、アカリが1人で作ってみたらいいよ。」 「あたしが1人で作れるかなあ。」 そこはちょっと不安だったけれど、チハヤのレシピを見せてもらえることは単純に興味が沸いた。 素直にありがとうと言いながら、野菜カレーをもう一口、胃袋に運ぶ。 こんなにおいしいのに、チハヤにはこの料理は当たり前の味の一つなのだろうか。 やっぱり、ずっと料理をしてきたら舌が肥えてくるのかな。 ねえ、とチハヤを呼ぶ。 うん?とチハヤはカレーから目を離してあたしを見る。 「チハヤはいつから料理をしていたの?」 あたしは、ふと思った疑問を素直に、率直にチハヤにぶつけてみた。 あたしのその声にチハヤは、ちょっと驚いたような拍子抜けしたみたいな、 瞼を一度震わせて、少し考えるように頭をひねった。 「覚えてないな。」 あたしの耳にその言葉は、しんとした湖の上に一滴落ちる雨みたいに、そっと響いた。 「それぐらい小さい時からだよ。」 その時のチハヤの表情が、吸い込まれそうなくらい透明で、どこかに行ってしまいそうだった。 上手く言えないのだけれど、チハヤの過去の一部の中に、 チハヤがひゅっと取り込まれて、閉じ込められてしまいそうで。 あたしは、どんな理由でチハヤが料理を作るようになったのだとか、 そんな理由を聞くほどの関係でもないし、聞いたらもっとチハヤが透明ななにかに取り込まれてしまいそうで。 泣きたいのか怒りたいのか、それともただただチハヤのその表情にはっとしただけなのか、 よく分からない感情のまま、 そっか、ってバカみたいな返答しかできなかった。 先に言っておくべきでした…。 わたしは料理をしません! なので料理知識は皆無だと思ってください。 |