#1 キッシュ 母が選んだ壁は、真っ白だった。 どこまでも続いていけそうな、これからどんな色にも変えることが出来そうな、 そんな真白さだった。 純白な印象を受けるその壁の色とは似ても似つかない家族関係を継続していたことに気付いた幼少期。 僕にとってはその壁の色は、大人の浅はかさだったり、 隠したい物事を塗りつぶすための小道具の一つにしか見えなかった。 母の気持ちが分からないわけではなかった。 ただ、信用という言葉を使うには時間は流れ過ぎていて、僕はとっくにあどけない子どもを卒業していた。 こぼれた砂を戻すには、僕の手は小さすぎたのに、 素直に笑顔になれるほどの純粋さは、もうどこかに隠してしまっていた。 故郷を離れて、都会とは無縁のこの島に来たときに、家具をそろえる傍ら、僕は写真館に足を運んだ。 小さな町なのに、写真館があってよかった。 シモンさんはおすすめの写真を並べてくれたけど、元々対して写真に興味なかった僕には、 どれも色や形の違いだけで、なにがどういいのかよく分からなかった。 ただ、白くなければいい。 ぽかんと空けられた壁を見ると、母のちょっと困った、泣きそうな顔を思い出してしまうから。 思い出したくもないのに、海馬の奥底で眠っている記憶の断片は、 僕の意志とは無関係に、ひょこんと現われては、いつだって僕をはっとさせる。 *** シロツメクサたちが、風に揺れて仲良く身を寄せ合いながら、しゃらしゃらと揺れている。 新しい牧場主としてここに訪れてから、もうすぐ春が終わろうとしている。 久しぶりにぼんやりとした気持ちで野の花を見たなあと、そう思った後に、 このところ寂しい財布の中身をなんとか増やしたくて、鉱山に引きこもっていたことを思い出した。 握力が跳ね上がったのではないかと思う自分の手のひらには ぽつぽつとそこかしこに咲いた赤い肉刺や絆創膏の痕が痛々しく残っている。 肉刺が破れるたびに新しく硬い皮膚が下からまた生まれてくるのだから、 皮膚ってたくましいな、って思う時がある。 牧場主として新米から半人前になってもよい手になってきているのではないかと思う反面、 20代前半のうら若き乙女としては、あまりにもたくましすぎるのではないかとも思って、思わず苦笑がこぼれた。 手のひらを見ることをやめてクワを握り直す。 夏に向けて、畑を広くしたかったし、何度も雑草が生えて痩せはじめた土を、 肥料を混ぜて柔らかくしてやりたかった。 『そろそろ、果樹園なんかも持ってもいいんじゃないかい?』 商売上手のルコラさんの口車に乗せられて、 夏までに果物の苗木を買いたいな、とも思っていた。 牧場に初めて訪れて、その美しさにはっとなったのは、やはり桜の木だったから。 ひらひらと花びらが舞う桜の木が、夏になるとさくらんぼを落としてくれると、 教えてもらった日から、夏が来ることが待ち遠しくなっていた。 せっかくなら、違う果物でその感動をもう一度味わいたい。 ルコラさんの口車に乗せられたのも、その気持ちが根底に隠れていたからだった。 『まだ、品ぞろえは悪いけどね、夏までに収穫したいのなら、オレンジの木がオススメかな。 でもさくらんぼとオレンジどちらも夏だからね。秋にも収穫したいなら、リンゴの木もあるよ。』 ルコラさんは久しぶりに果樹を買うお客が来たことにはりきったのか、 商売言葉を次から次へとあたしの耳に吹き込んでいく。 あたしは、こくこくと頷きながら悩む間もなく気付いたら財布の口を開いていて、 オレンジとリンゴの苗木をそれぞれ2本ずつ買ってしまっていた。 『春の間に植えていたら、夏の中旬にはオレンジがなるよ。』 あたしは、ルコラさんのその言葉を信じて、土に肥料を混ぜてクワで梳いている。 春の日差しを十分に吸い込んだ土たちは、手を当てるとあたしにも光の温かさを分けてくれるのか、 ゆっくり、ゆっくりと熱が伝わってくる。 だんだんと、土の柔らかさとか温かさ具合で、作物がよく育つ土なのかどうか分かり始めてきた。 「よし、もういいかな?」 あたしはそっと言葉を吐き出すと、傍に置いていたオレンジの苗木を手元に寄せる。 果樹って初めて植えるから、クレソンさんからもらったメモを片手に、オレンジの苗木にふさわしい深さまで 穴を掘って、そこにゆっくりと苗木をおいた。 土をまだ被せていない苗木は少し寒そうで、ふるりと震えているのではないかと思う様子だった。 「精が出るね。」 突然、声をかけられて、あたしはびっくりして肩が揺れた。 ぱちぱちと睫毛を震わせながら、声がした方を反射的に振り向くと、真っ先に目に入ったのは瞳の色だった。 あ、きれいな色。と、そう思った。 粘度が高そうな薄紫色のその瞳は、 いくつものビー玉が入っていて光に当たってきらきらと反射し合っているみたいだった。 じっと、見ているわけにもいかなくてあたしは慌てて、こんにちは、と声を出して頭を下げた。 瞳の色に捕らわれていたけれど、 最近仲が良くなったキャシーが働く酒場のアルモニカで、調理担当をしている人だと気付いた。 来たばかりのころに挨拶は交わしたけれど、それ以来アルモニカに訪れても彼はいつもきっちりと アイロンがあてられた気持ちのいいシャツの背中しか見せてくれていなかったから。 瞳の色がこんなにきれいだったなんて、今初めて気づいたくらいだった。 「こんにちはって言ったけど、こんばんはが近いかな?これからアルモニカ?」 あたしは、顔を上げて彼の瞳をうっかりと見過ぎてしまわないように、 つらつらと言の葉を並べた。ちょっと眉根が寄っているのはもともとなのかな? そういえば、初めて会ったときも、彼は隠すことなく溜息をついていた気がする。 「うん、いつも難儀なことをよくやってるな、と思って。」 彼は、今まさにあたしが植えたオレンジの苗木を見ながらそう言った。 シャツの先から見える彼の腕は細くて白い、農作業とは縁がなさそうな腕だった。 「ルコラさんに勧められたから、小さいけど果樹を植えてるの。」 「ふーん、すごいね。いいのが出来たら販売とかするの?」 「出来たらね。うまくいけば夏の真ん中には、果樹園っぽくなってるのかな?」 ポケットからタオルを取り出して、あたしは額から染み出てきた汗を拭きとった。 作業を止めると汗は思い出したかのようにひょっこりと現われはじめる。 すると、あたしのお腹の虫もけっしてつつましくない音で空気に触れて、あたしの耳に届いた。 きっと、立ち話をしていた彼の耳にも届いたのだろう。ちょっと眉根を寄せて怪訝な顔をした。 あたしは自分の耳が熱をともすのを感じながら、慌ててお腹を押さえた。 もう、どうしてこんな時に限って。まだ、夕方だっていうのに。 「…ごはん、アルモニカでまた食べるの?」 「そうしたいところなんだけど、ルコラさんの口車に乗せられて果樹の苗を買ったら、 ちょっとお財布がピンチなんだよね。明日になったら今日の出荷分の収入があるんだけど。」 彼の言葉に、あたしはえへへと誤魔化しながら答えた。 下手をしたら、また腹の虫は自分の居場所を主張するかもしれない。 「ふーん、そっか。で、なに作るわけ?」 「キノコかハーブ…かな?あ、ブルーベリーもなってたんだよね。」 「よくそんな貧相な食事で牧場ができるね。きみ、料理しないの?」 ぴしゃりと返された言葉に、うっ、と言葉が濁った。 確かに、キッチンにはそれなりの調理道具をそろえている。 (これはブランさんの口車に乗ってしまった…ということもあるのだが) でも牧場の仕事に追われて帰ったあと、 筋肉痛でだるくなった腕を、とても料理にふるおうとは思えなくなってしまうのだ。 いつかはやろうと思っているのだけれど、そのいつかはまだ来ていない。 そういえばマイちゃんが料理指導をしてもらっているって言ってたなあ。 うーん、見るからに厳しそう。 あたしはなにも言えずにごにょごにょとしていると、目の前の彼は、はあっと溜息をついた。 「ちょっと早く出てきたんだよね。 常連さんに、キノコでごはんをすませるって聞き捨てならないことを言われちゃね。」 「はい?」 あたしは展開についていけれなくて首をかしげた。 ええと、つまりどういうことだろう。 「キッチンって使ってもいい?」 彼は何の含みもない、至極あっさりとした声でそう言った。 あたしは何の意図があるのかよく分かりもせずに、気付いたらこくこくと頷いてしまっていた。 「いいけど、えっと、チ、ハヤさん?仕事大丈夫?」 「さっきも言ったけど、早く出てきちゃったからまだ時間あるんだ。」 あと、呼び捨てでいいから。そんなに歳変わらないでしょ。 そう言うとチハヤはさっさとあたしの家の方に向かって足を向けていた。 彼の足もとで、しゃらしゃらとシロツメクサたちが揺れている。 ええっと、どんな展開なんだろう? あたしは首をかしげながら、今の状況を傍観する事しかできていなかった。 チハヤは、あたしの家に上がるとまっすぐにキッチンに行って、調理器具を確かめ始めた。 「道具はそろってるんだね。新品みたいだから、もしかして使ってない?」 「う、うん。」 溜息をつかれる。 嫁入り前の女子として、これっていったいどんな状況? 昔からそんなに料理を作ったことなかったけど、うう、なんか情けない。 あたしはまた熱がこもりはじめた耳を押さえながら、 チハヤが冷蔵庫の中を開ける様子を見ていることしかできなかった。 「ほんとだキノコとハーブ、ブルーベリーがある…。 ジャガイモとタマゴ、チーズ、あ、バターもあるね。ねえ、ホウレンソウとニンジン、玉ねぎはクレソンさんから?」 「え、うん。春になったものだけじゃだめだ、野菜も食べろって言われて。でも、なんで分かるの?」 「ぼくも昨日、おすそわけされたんだよね。おせっかいな人が多いよねこの町って。」 チハヤはそう言いながら、キッチンの上に次々と材料を並べていく。 あたしはこんなに材料が並んだ料理を作ったことがないから、ただ見てることしかできなくて。 手伝おうかって、役には立たないだろうなと思いながら、一応言葉だけは吐き出してみたけど、 誰かと一緒にキッチン立つのって嫌いなんだよね、と一蹴されてしまったので、 大人しく料理が出来るまで道具箱の整理とか、明日の仕事の段取りをしていた。 「出来たよ。」 そう、チハヤに言われてあたしが顔を上げる随分前から、オーブンからいい匂いがしてるなって思ってた。 あたしの胃袋の虫が我慢できなくてもう一度泣いてしまうちょっと前に、 チハヤは完璧なタイミングでそう言ってくれた。 「わあ。」 見て、一番に溜息がもれた。 チハヤが作ってくれたそれは、ニンジンやホウレンソウ、キノコや玉ねぎなど色とりどりの野菜がのっていて、 チーズの焦げた匂いと一緒に、もう待ちきれないくらいあたしを刺激するには十分すぎるくらいで。 「ねえ、これなんていう料理?」 あたしは、立ち込めるいい匂いの元を指差して、これからこれがあたしの胃袋の中におさまるのかと くらくらするくらい嬉しい事実が消えてしまわないように、そっとチハヤに囁いた。 「キッシュだよ。野菜がたくさん使えるし、冷蔵庫の掃除にもってこいなんだよね。」 キノコを食べるっていうなら、これくらいないと食べごたえないでしょ? 続けてそういうチハヤの言葉にあたしは、勢いよく首を横に振った。 「あたしには無理!こんなにたくさん材料がいる料理、すごいね、なんだかきらきらしてる。」 「ちょ、よくそんな恥ずかしいことが言えるね。」 チハヤはうっとおしそうに眉根を寄せながらそう言っていたけれど、 あたしはもう我慢できなくなって、フォークとナイフをつかってキッシュという料理を口に入れた。 ああ、もう幸せだなあ。 とろんと胃袋が溶けてしまうくらい。そんな表現がぴったりだ。 キッシュはあたしの身体の一部になったとたん、お腹の中で幸せな温かさであたしを満たす。 「チハヤ!おいしいね。すごい。ほんとおいしい。」 胃袋を掴まれるってこういうことをいうんだと思う。 すごい、あたしが男だったらこういう料理が出来る人お嫁さんにしたいって、 思考回路がそこまで飛んで行ってしまうくらい、チハヤの料理はおいしかった。 アルモニカで普段食べているのがおつまみ程度のものだったから、 彼の本当の料理というか、なんだろうしっかりと食べたことがなかったんだな、ってそう思った。 「今度、アルモニカに行ったら、しっかりした夕ご飯注文しよ。ねえチハヤ、これはメニューに入れないの?」 「入れてもいいけどちょっと原価が高くなるかな?自分で作った方がよっぽど安いよ。」 「う…そう言われたらなにも言えないんだけど。」 これから夏がくるから財布の紐を簡単に開いてしまうのはちょっと危険だった。 夏の種も買わないといけないし、果樹園だってこれから広くしていきたいと思っていた矢先。 鉱山で稼いでなんとか食べれる味なのか、って思った途端にこのキッシュがおしくなってきて、 あたしはちびちびとフォークでキッシュを拾って口に入れた。 ああ、冷めちゃう。でも、急いで食べてしまうにはあまりにも惜しい。 チハヤは急にのろのろとフォークを動かし始めたあたしの方を見て、ちょっと笑った。 ん?とあたしがチハヤの方を見る。 ビー玉色にチハヤの瞳が反射して、面白い事を思いついたと笑っているような気がした。 「ねえ、交換条件ってのはどう? 僕は料理を作るから、きみは僕に材料を提供してよ。 めんどくさいって思わないくらい、きみが作る野菜とか乳製品に、興味が沸いたんだよね。」 今、思いついたんだとも言いたげにしながら、チハヤはどう?とあたしにその話を持ちかけた。 それは、もちろん、ねえ? 胃袋を掴まれているあたしに、誰がnoと言えるだろうか。 「それは願ったりかなったりの話なんだけど、いいの?」 「いいよ、ただで試作品がたくさん作れるってこっちにしても悪い話じゃないし。」 その代り、牧場の仕事がんばってよ。と釘を刺される。 ええ、もちろん。分かってますとも。だって、こんなに完璧でおいしい料理をお金を払わずに食べれるんだったら、 そりゃあ仕事にも身が入るってものだ。 あたしはチハヤが持ちかけた話にうっとりとしながら、キッシュの残りを名残惜しかったけど口に入れた。 嚥下されていくキッシュを待ち構える胃の虫は、きっと満足で、もう泣くことはないだろう。 ねえ、とあたしはチハヤに話しかける。 うん?と彼は、完璧な料理がさっきまでそこにあったお皿から目を話してあたしの方を見る。 「どうして、その、いきなりこんなに親切にしてくれたの?」 ちょっと、失礼な言い方になったかもしれない。 だって、チハヤとは本当についさっきまでほとんど言葉も交わしたことはなくて。 どっちかといったら、あたしのことなんて嫌いなんじゃないかって思うくらい、 興味の欠片も示してくれていなかったから。 チハヤの職場までの行き道、帰り道の途中。 ちょうど真ん中くらいにあるあたしの牧場に彼が立ち止まったのだって、きっと今日が初めてだったはずで。 あたしの質問にチハヤはちょっと考えるように、頭を揺らした。 チハヤの髪の先が、しゃらしゃらと揺れる。髪の毛の踊り方が、さっき見たシロツメクサみたいだった。 きっと、チハヤにとっても思ってもみなかった行動だったのではないだろうか。 思いつきで、あたしの牧場にたまたま興味を持って、 あたしの料理の腕が散々だったから、こうして手を差し伸べてくれているのだろう。 あたしがぼんやりと頭の隅でそんなことを考えはじめた矢先に、 チハヤは、やっと言葉が見つかったとでもいうように、口を開いた。 「きみの牧場で採れたっていうタマゴがさ、おいしかったんだよね。 せっかくあんないい食材があるのに、当の本人が料理しないなんてもったいないって思って。」 チハヤはぶっきらぼうにそう言うと、もう仕事だからと、 さっさと背中を向けてあたしの家から出て行ってしまった。 あたしは今日もぴっちりと綺麗にアイロンがあてられたシャツの背中を見ながら、 たいして仲も良くなかった彼を、いつの間にか名前で呼び合うことになって、 そしてこれから料理を作ってもらうことになったという、変な関係に名前を付けることもできずに、 あたしは、胃袋でいまごろ眠っているキッシュのおいしさの余韻に、浸ることしかできなかった。 キッシュって時間かかるんですね。深く突っ込まれたらダメな料理にしちゃったなと思いながら。 材料がたくさんいる料理にしたかっただけなんですけどね。まあそこはご愛嬌で(^_^;) |