#3 スコッチエッグ






よく、分かっている。


あの人たちが自由に生きていくために、何にも憚らずに息をしていくためには、

幼い僕が邪魔だったことを。


家族という箱の中で生きていかなくちゃいけなかったから、

あんなにも歪んだ関係を構築しなければいけなかったのではないか。




それでも。



完璧を求めていた家族の像と、あまりにもかけ離れていることを感じながら、

いつかは完成するのではないかと期待して、いつまでも笑われそうな紙芝居を送っていた。

そのために、子役だった僕は、あの人たちにとって絶対に欠かせないものだったのだ。




ねえ、愛してた?愛してる?


そんなこと聞かなくても答えは分かっていた。

母という、父という、それぞれの枠の中に入るためなら、きっとあの人たちは、僕に笑顔を見せただろう。



何言ってるんだ、当たり前だ。


愛してるわ。ねえ、チハヤだってそうでしょ?



そんな言葉なんかいらない。聞きたくない。



自分の鼓膜を破ってしまわないように、いつからか僕は、父と母に尋ねるという行為をやめてしまった。

二人が紡ぐ、不釣合いな言葉の糸は、いとも簡単に僕の気持ちを凍らせて、隅っこに縫い付ける。



ねえ、いま僕に会ったら、いったいあの人たちはなんて言うんだろうね。

すっかり大人になってしまった僕は、もう紙芝居に登場できる子どもじゃなくて。


家族という箱の中から飛び出すために、喜んで紙切れ一枚にサインをするのだろうか。


いまとなっては、もう分からない話だけれど。





息が苦しくなる。


きっと、二酸化炭素を多く吸い取ってしまう性質なんだと、馬鹿なことを考えながら、


僕は、クレソンさんやルコラさんに勧められるままに、観葉植物や庭に植えるハーブ・野菜を譲り受けた。

実際、料理をする際に、野菜もハーブもとても重宝するものなので、

さして戸惑うこともなく、譲り受けた後は淡々と世話を続けていた。



息を吸う、ゆっくりと吐き出す。

まだ、足りない。


家の外だけでなく、部屋の中にも植物を置いた。


冷蔵庫や棚の横に観葉植物を置きながら、ひゅっと、ゆっくり息を吸う。

吸って吐いて、吐いて吸って、何度も繰り返す。



いつか、この息苦しさが消えてなくなるはずだと、目を瞑って、そう思っている。








***






あ、種を準備しておくの忘れちゃった。


畑の収穫も終わりに見え始め、青々とした葉の隙間から土に触れて、

そろそろ肥料を足さないとなぁと考えていると、ストックしていた種の数が少なくなっていたことを思い出した。


うっかりしてた、と自分の仕事の段取りの悪さを恨みながら、

私は残った収穫をすべて終わらせると、こわばった筋肉を、身体を伸ばすことでごまかし、

服についた泥をはたいて、財布を握った。




いまから行けば、十分閉店時間の前に滑り込むことが出来る。


出かける前に、ふっと出荷箱が目に入った。



今日は、かがやくタマゴが3つ採れた。


チハヤは料理でなんでも使えるという理由と使いやすさからか、

タマゴへのこだわりは他の物よりも群を抜いていて、

だからこそ、かがやくタマゴが採れた時のチハヤの料理は、舌を鳴らさずにはいられなかったし、

たいしたことないよ、と口では言いながら少し得意そうに眉を上げる彼の表情を見ることが好きだった。



それは、師匠であるユバ先生の前で見せる、少し硬い、緊張した表情でもないし、

マイちゃんの前で見せる、料理の先生としての隙のない厳しくも優しいまなざしとも違う、

アルモニカでお客さんに提供する際の、キャシーに促されてする営業スマイルとも違う。


そういった瞬間が、一枚一枚、カメラで切り取る写真みたいに、

あたしの網膜の裏に焼きついて、こっそりと海馬の中で眠らせている。

これは誰にも言っていない、あたしとチハヤの『交換条件』の上にひっそりとたたずむ秘密の一つだった。


そんなことを考えながら、駆け足でマリンバ農場を目指した。そう、風を切るようにって表現がぴったりの駆け足で。

チハヤの家は都合のいいことに、マリンバ農場の隣だった。


種を買った帰りに、彼の家のチャイムを鳴らして、教えてあげようと思った。


今日はとってもいいものが採れたのよ、って。



ひゅんひゅんと、鼓膜が風の音を捉えている。

橋を渡って歩を緩めると、途端に思い出したかのように徐々に息が上がってくる。


ばくばく、ばくばく。


心臓の音を跳ねらせながら、チハヤの家を通り過ぎて、マリンバ農場のドアを開ける。

閉店時間までまだ時間があるのに。

駆けって心臓を躍らせて、まるでその後の楽しみをかき混ぜてるみたい。


息を弾ませているあたしをルコラさんは、おやまあと驚いた声で迎えてくれた。

はは、ねーちゃんダサいなあ、と胸を押さえるあたしを見て、タイムくんが笑っている。

おお、いいところに来たな、タマネギとパン粉持っていきな。とクレソンさんが、ほらよっと袋を差し出してきた。


あたしは、息を整えながら、一人ひとりに挨拶をして、

畑に蒔く分の種と肥料、クレソンさんからのお裾分けをありがたく頂戴した。



故郷の町と違うなあ、って。こういう時に思う。

馴染みのお店は一つか二つはあったけれど、流行の波に乗せられるように、

あっちこっちと店に顔を出して、当然、こんな風に親しく会話を交わす仲にもならなくて。


こういう関わり方って、新鮮だなって思う。

チハヤはおせっかいな人が多いよね、の一言で流してしまったけれど、

でも、あったかいね。あたし、嬉しいの。と、返すことくらいあの時でも出来た。





初めて一緒に料理を作った、あの日。


チハヤの伏せた睫毛の影とか、淡々とシンプルで、率直な言葉の音の響きとか。

妙に踏み切れない、仲が良いって言えるのか分からない微妙なラインのままの関係とか。


全部、ごっちゃまぜになって、わけがわからなくなって、バカみたいな返事しかできなくて。

それから変に、なんて言ったらいいか分からないまま、

チハヤがこの町に来る前のことを、迂闊に聞くことを止めていた。


聞いたらまた、あたしの胸はきゅっと掴まれる。冷たい水で浸した指先が触れるみたいな、そんな感覚。




せめて、もっと仲良くなれたらいいのかな、

あれ?チハヤって、あたしと仲良くなりたいって思ってるのかな。


ぽんぽんと、ポップコーンの粒みたいに浮かぶ疑問を頭の中で飛ばしながら、

また、来ますね。と笑顔で笑って、マリンバ農場のドアを引いた。


そういえば、今日はアニスに会わなかったな、またウォン先生のところに行っているのだろうか。


歳が少し上のアニスは、ハーブにとても詳しくて、

そのままで食べたらいいんじゃない?体力回復に役に立ってるんだよね。

と、チハヤに料理を作ってもらう前のあたしがそう言うと、

ぱちぱちと目を瞬かせて、その次にふふふ、と笑って、

私がもっと良い方法を教えてあげますわ、とハーブティーの淹れ方を教えてくれたのだ。



私が生まれ持って兼ね揃えなかった、気品とか上品さとか繊細さとか、

そういった要素がすべてアニスには揃えられているようで。

あたしは、大人なお姉さんを持ったような感覚で、アニスが教えてくれたハーブティーのレシピを、

チハヤがくれたレシピと一緒にファイルに納めていた。




そうだ、果樹園が成功したら。


チハヤにデザートの作り方を教えてもらおう、リンゴかオレンジ、どっちもぴったりの材料だ。

そして、アニスに教えてもらったハーブティーを淹れて、お茶会をしよう。


そんな計画がぽんぽんぽんと頭に浮かんで、ちょっと気分が上がってきた。



チハヤのことを考えて、アニスのことを考えて、

あたしの頭の中は忙しかった。


だから、あたしの頭の中で登場していた二人が、ドアを開けてすぐ、視界の中に飛び込んでくると思わなくて、

別にご近所さんなんだから会話ぐらい普通にするでしょ、と頭の片隅で思いながらも、

びっくりしたあたしは思わずドアの横の植え込みに身体を隠してしまっていた。



アニスはチハヤの家の前の小さな畑に、ジョウロを持って立っていた。

ちょうどこれから水やりを始めるところだ、という恰好だった。

それを玄関から出てきた様子のチハヤが、声をかけている。


別になんてことない、ご近所さんの光景の一つだ。そうに違いない。



なのに、ああ、もう、何やってんだ自分。

完全に姿を見せるタイミングを見失ってしまった。






「自分の畑のくらい、自分で世話しますよ。」


チハヤの声がはっきりと聞こえる。当たり前だ、彼の家はマリンバ農場の目と鼻の先なのだから。


「なんでかしらね、ついつい水やりの延長でしてしまいますの。だから、気にしないでください。」


続いてアニスの艶のあるおしとやかな声が、さっきまで風を切っていたあたしの鼓膜に届く。

チハヤが困ったように言葉を続ける。



「そう言われても。」


「ついでなので。ね?」


「そういうわけにもいかないでしょ。」



「ねえ、もうこのハーブ、収獲する時分じゃあないかしら。」


ふっ、と軽くアニスは微笑んだ後に、話題をすっと変えた。

彼女のすらりとした指の先が、レッドハーブの葉先に軽く触れる。農場の仕事を毎日しているというのに、

その指の先は、はっとするくらい白くて、あたしをなぜか動揺させた。


そうですね、とチハヤは少し肩をすくめている。

彼には、アニスの指の白さが見えていないのだろうか。



「なんでかしらね。」


チハヤの気のない返事を全く気にしていない様子で、アニスは言葉を続けた。

彼女の指の先は、すでにレッドハーブから離れてジョウロを持ち直していた。



「あなたを見ていると、つい何かしてあげたくなりますの。お節介って自分で思ってても。」


「そういうのを大きなお世話っていうんですよ。」

「ええ、分かってますわ。」



でも、とアニスはさらに言葉を続ける。

彼女の声が綺麗ってこんなにも思ったことはなかった。

チハヤの代わりに、あたしが彼女に恋をしているみたいだった。


「植物も生きているから、育てている人間に似るものなのかしら。」


一拍、空気が止まる。

チハヤがじっとアニスのことを見つめているようだった。遅れて始まった恋物語のように。




「それは、どういう意味ですか?」


「さあ?」



それじゃあ、私はあっちの畑の世話もありますので。と、にこりと微笑みをこぼすと、

アニスはチハヤの家の裏手にある、マリンバ農場の畑へと向かっていった。


残されたのはチハヤと、アニスに撫でられたレッドハーブと、

腰が痛くなってきたあたしだけになった。


チハヤが、ふっと溜息をついた。肩が小さく揺れる。


「ねえ。いつまでそこにいるの。」


声をかけられるとは思っていなくて、あたしの肩はチハヤよりも大きく揺れた。




「盗み聞きされるような大した話してないよ。」


「なんでかな、つい身体が動いちゃって。アニスとチハヤがしゃべってるとこ、中々見ないからかも。」


「でも、張り込みには向かないね。ずっと見えてたよ、触角が。」


「もう、それ言うの禁止って言ったじゃない。」



よかった、そんなに怒ってないみたい。


あたしは触角といわれたくせっ毛を右手で撫でつけながら、

あたしの牧場に向かうチハヤの後ろを、やや早足でついていった。






「いいタマゴだね。」


かがやくタマゴを見て、チハヤはぽんと言葉を放った。

あたしはその声に、うっとりする。

手放しに褒められることが、こんなに嬉しいなんて思ってなかった。




チハヤは沸かしたお湯の中にかがやくタマゴを二つ入れた。

茹でている間にタマネギを微塵切りにしている。


野菜カレーの時から、少しずつ料理を覚えているあたしの最初の任務は、

茹でたかがやくタマゴを取り出して氷水につけておくことだった。


簡単そうに見えて、料理べたのあたしには、タマゴがつるんと床に落ちてしまわないかとか、

茹ですぎたんじゃないかとか、一つ一つの心配事が押し寄せてくるので気が気じゃない。




あたしに比べると、まあプロなんだから当たり前なのだけれど、

チハヤはまるで水を獲た魚のように、流れるように料理をする。


微塵切りにしたタマネギとバターを電子レンジにかけたあとに、

合挽き肉やパン粉、牛乳に最後のかがやくタマゴ、塩やコショウを次々とボウルの中に入れていく間も、

まるで歌を歌っているみたいで、あたしはその姿を目の端に入れると、ドキドキして氷水をこぼしてしまいそうになる。



混ぜ合わせた挽肉を使って、あたしが冷やしたタマゴを包んでいった。


「なかなか上手いんじゃない?」


あたしの包み方を見て、チハヤは淡々とそう言った。

ふふふっと笑みをこぼす。

挽肉に包まれたかがやくタマゴを揚げている間中、

アニスとチハヤの会話を盗み聞いてしまった罪悪感は隅の方に隠れ、あたしは上機嫌になっていた。





完成した料理は、スコッチエッグという名前だと、チハヤが教えてくれた。


あたしは、舌が火傷してしまう一歩手前くらいの熱々加減のスコッチエッグにかぶりつくと、

中からかがやくタマゴのじゅわっと溢れる黄味の半熟加減に、おいしさで悲鳴があがりそうになった。

いや、実際に悲鳴があがった。


こんなに美味しいものが、自分の家のキッチンで誕生しただなんて、想像したことがなかった。


あたしの反応にチハヤは満足そうに頷くと、

スコッチエッグのレシピをあたしのファイルに書き加えていた。


あたしはアニスが教えてくれたやり方でハーブティーを淹れると彼の横に置いた。

もう15分もしないうちに、チハヤはレシピを書き終えてハーブティーを飲み終えると、

今日もまた酒場のコックとして、彼の聖域であるキッチンに立つのだろう。


あたしはさらさらとペンを動かすチハヤの指の先を見つめていた。

日に当たることが少ない彼の指の先は、キッチンで火傷をするはずもないので、

白く、美しかった。



ハーブティーを口につけるチハヤは、先ほどまで書いていたレシピを読み直している。



「たまに息苦しくなる時があるんだよね。」

ぽつん、と。ハーブティーの中に角砂糖を落とすみたいに、チハヤが呟いた。


「え?」


「なんでもない、忘れて。」


もう一度、カップを仰いで、チハヤはコツンとテーブルにカップをおいた。

ハーブティーの香りが漂っている。


「ねえ、やっぱり君ん家のタマゴは最高だよね。」


くしゃっと笑う。


それくらいにしか、あたしにはできない。

楽しいって、思ってもらえてたらいいな、とか。

それくらいしか願えない。



アニスには分かるのだろうか、チハヤのことが。

あたしはさっきまで隅に隠していた罪悪感を引っ張り出して、

今日の二人の会話を一つ一つ、思い返していった。



毎日のように料理を作ってもらっていて、きっと話す回数も多いはずのあたしは、

チハヤとの距離をどんな風に保てばいいのかとか、

何をしゃべったら前みたいな冷たい空気を生み出さないのかとか、距離の埋め方も分からずに、

かといって、アニスのように畑の世話をしたりとかそういうこともできないし、


ただ、この関係を続けていくことが、チハヤの支えになればいいのにって、


都合のいいことしか考えることができなかった。










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