ぽろぽろと、まるで角砂糖みたいに、私の耳から音たちが転げ落ちていく。

私は一度だって、その味を味わったことはなかった。




音があるその世界の中に、足を踏み入れたとき、一体どんな気持ちになるのだろうか。

私はそのとき、角砂糖の味の素晴らしさに、嬉しくて笑うのだろうか。

もしかしたら、初めて味わう世界に畏怖して、泣いてしまうかもしれない。










慣れない牧場の仕事も、ひとつまたひとつと身に付き始めた頃、初めて私は、ジャガイモの収穫をした。


土の中からほっこりと顔を見せた時のジャガイモは、

まるで赤ん坊のように、手の平に包み込んで愛でてやりたくなった。

今日の仕事の大半は、ジャガイモの収穫、新しい種の植え付け、水やりとなり、

気づいたら、太陽がすっかり西の方に移動していた。


ふう、と一息つく。

身体はくたくたになり、お腹は空腹を不満げに漏らしていた。



息を吐き出して、ちょっと畑を見ていたら、肩を誰かの手が二度叩いた。

私はびっくりしてしまって、目をぱちぱちと驚かせながら、思い切り後ろを振り向いた。


思っていたよりも近くに、キリクがいた。

どきっとする。まるで心臓が躍ったみたいだった。



キリクは笑いながら、私にメモ帳を出すように、指をちょいっと私のポッケを指差した。

私からメモ帳を受け取った彼は、さらさらと慣れた文字を書いた。



『だいぶ牧場っぽくなったな。初めは本当に、畑というよりはただの草っぱらだったのに。』


大きくてちょっと雑なその字のすぐ下に、ペンを取りだした私も続けて文字を綴った。



『そうでしょう?今日初めてジャガイモを収穫したの。よかったら上がって食べてく?』


『いいのか?』



『そっちの方が、一人よりも楽しいから。料理作るの手伝ってね。』


私の心臓の動きとぴたりと重ねたみたいに、私の文字は躍っているみたいだった。




『わかった。じゃあ遠慮なくお邪魔するよ。ありがとう。』



にっ、と彼の口角がきゅっと上がる。ぱっと空気が明るくなる。


彼の笑顔は、まるできらきらとまぶしい光の粉が、彼の周りでしんしんと降り注いでいるかのようだ。









小さな私の家の中に入ると、私たちは二人でジャガイモの皮をむいた。

一人暮らしをしているだけあって、キリクは要領がよかった。


するするとジャガイモは服を脱いでいくと、さらりとした新しい表情を見せてくれた。

包丁でジャガイモをばらばらに切り取って、新しい形を作り出すキリクの手が、

あるで彫刻士のように荒々しく美しくて、私はこっそりと彼の手ばかり眺めていた。




キッチンに立っているとき、メモ帳もペンも持てない私たちは、会話を生み出すことができなかった。

けれども、変な気づまりや緊張もなく、キリクの横に立っているとき私は、不思議な安心感を持つことができた。




私の世界の中に、キリクは何の壁もなく、すんと入ってきてくれる。


ただ、そこにいる。

それだけで彼はもう特別だった。





キリクの、日だまりのきらきらと眩しい光の粒を集めたような温かい雰囲気が、

私をすっぽりと飲み込んでくれる。まるで、胎児になった気分。ずっとその中でたゆたっていたくなる。





彼の声が聞こえなくても、会話が出来なくても、意思を伝えれなくても、

お互い何をするべきか、相手をどう手助けするかが手に取るように分かるようだった。


彼が鍋をかきまぜる。私は小皿にスープを少しいれてもらって、味を確かめる。

二人で目を合わせて、頷く。二つのお皿にポトフをよそう。



私たちは柔らかな空気の層にすっぽりと入ってしまったようだった。

同じように息を吸い、吐いて、吸って。私たちの空間が少し、また少しと、出来上がっていく。





ポトフは、お腹の中をほっこり温かくしてくれた。

私たちは湯気がまだ出ている間に、目を細くしてポトフをたいらげていった。




ポトフを食べ終わると、やっと私たちの手にはペンが握られた。

メモ帳には、今までの沈黙を払拭させるかのごとく、どんどん文字が描かれていく。

キッチンからずっと、押し黙っていたペンは、次々と言葉をメモ帳の上に吐きだしていった。





『なかなか旨かったな。』


『キリクって、意外と料理上手なんだね。』



『意外ってなんだよ。これでも一人暮らし長いからな。』


『なんというか、肉をガーって焼いたり炒めたりする料理が得意そうだったの。』



『そうか?』


『そんなイメージ。』



文字が埋まっていく瞬間が、好きだ。

私には、音も声も持たないけれど、伝えることができる、言葉を見てとれることができる。

たまらなく、幸せだと思った。





『ジャガイモまだ余っているから、よかったらキリク持って帰って?』


『いいのか?出荷するんじゃないのか?』


『大丈夫。その分はもう取ってあるから。』



『そうか。ありがとう。ハヤテが喜ぶよ。』




ハヤテという言葉が踊るように、メモ帳の中ではっきりと私の目に飛び込んできた。

キリクとの会話の中に、キリクの心の中には、いつでもハヤテがいた。


文字ばかり見ていると、そのひとつひとつの言葉で、

その人にとって何が大切なのか、私はすぐに分かることができるようになっていた。



『ジャガイモはあいつの好物なんだ。チセが作ったのは、きっと格別旨いだろうな。』




『ハヤテ』の隣に『チセ』という言葉が並んだら、『チセ』がくすんだように見える。

しゅわしゅわと、私の気持ちは小さくしぼんでしまう。



『ハヤテ』はどんな言葉よりも、キリクにとって大切な三文字なのだ。


ひしひしと、嫌でも目に入ってくるその三文字に、私はいつからこんなにやきもきするようになったのだろうか。





『それならよかった。じゃあ早速明日にでもあげてね。新鮮な方がいいし。』

文字が震えていないか、書くのが遅くなっていないか、

細心の注意を払いながら、私はペンを走らせた。



『おお、そうだな。ありがとう。

長い間お邪魔しちゃったな。そろそろ帰るよ。』



気づいたら、思っているよりも遅い時間になっていた。

あっという間に針を動かしてしまう時計を恨めしく思いながら、私はキリクを家の外までお見送りした。



外は藍色に近い色を濃く描き、ちらちらと光る星たちが浮立って見えた。

家の外に出る時、暗さで文字は見えないので、私たちの会話は終了していた。


だから、笑いながら手を振るのが、私たちのさよならだった。




そのとき、キリクはよく私の頭を、ぽんぽんと優しくたたいてくれる。

大きくてなんだかごつごつとしている手からは、信じられないくらい優しい彼の触れかたは、

髪の毛を通しても温かさを感じられ、私はドキドキしっぱなしだった。


びっくりするくらい優しい触れかたに驚くのだが、きっとハヤテにいつもしているのだろうと思うと、

私はなんともいえない複雑な気分になってしまう。すごく欲張り。






キリクが向こうの樹の影に隠れてしまっても、

私は澄んだ空気の中で、ずっと見えなくなった彼を見つめていた。


さよならはあっという間だ。

そしてまた、明日会えることを小さく胸の中で願っている。





ああ、どうして。

私の瞳は、彼から目が離せないのだろう。

彼の声を耳から拾えない分、私の瞳は一生懸命彼の姿を瞳の奥底に留めておこうとする。

ずっとずっと、彼の姿を蓄積していったら、いつか彼の心からの声が届くかもしれない。




そんな馬鹿みたいな夢を思いながら、今日も私は心の中で彼の名前をそっと呟くのだ。











 back