畑の草を取り除いて、種を植えれるように耕すだけで、私の額には大粒の汗が浮かんでいた。

額に大量にひっついていた汗を、タオルでひきはがしながら、

私は今まで大汗をかきながら作った、畝をあらためて眺めた。


家の前に二つの畝。

これを作るだけで、午前いっぱいを使ってしまっていた。これからやっと種を蒔いて、水をやることができる。



ふーっと大きく息を吐く。

まだまだこれからなのだと、気持ちを引き締めた。




午後になると、簡単なお昼ご飯を食べて、私は村に挨拶に行くことにした。

市役所に行って、イルサさんに村の人の名前入りの村案内の地図をもらうことができた。

『私が案内をしようか』と、さらさらと綺麗で少し堅めの字でイルサさんは尋ねてくれたけれど、

彼女は、彼女の横にある大量の資料を、きっと片づけなければならないのだろうと思って、丁重にお断りした。




村の人たちは、優しかった。

この村のやわらかな空気は、きっとこの人たち一人一人から生まれているのだ。そう思えるくらい。



私はあらかじめ書いておいた紹介の紙を見せながら、頭をぺこりと下げる。

それだけで、もう君はこの村の一員だと、

優しく笑いながら村の人たちは自分たちの紹介を各々個性的に教えてくれた。


そればかりか、慣れない場所に来て大変だろうと、

かぶの種、おにぎり、たけのこ、シイタケなど、さまざまなものを私に譲ってくれた。

おかげで、ほとんどの人の挨拶が終わるころには、私の手の中には譲りもので溢れていた。




挨拶も最後の一件。私の牧場から一番近い家。


イルサさんに、村案内の地図をもらったときから、この家は最後に行こうと心の中で決めていた。



あの夜のことを、頭の中で思い出す。

大きな背中、太陽のような温かい匂い、力強い腕、安心するあの空気。

笑った時の優しい瞳とか、口角の上がり方とか。

もう夜になっていて、暗がりの中だったのに、瞼の裏にくっきりと思い出すことができる。



おかしい話なのかもしれない。


たった一度しかまだ会っていないというのに、私の頭の一部を彼が持って行ってしまったかのようだった。






キリク


まっすぐに私を見てくれた。笑ってくれた。

それだけで、私の頭の中はいっぱいになる。あふれそうになる一液一液を大切に手の平に包み込む。








ドアを叩くのに、少し勇気がいった。

なんてことない、今日何度も叩いたドアが、大きくそびえたつ城のように思える。

手が少し触れただけで、警戒音のような不快音が響くんじゃないかと思ってしまう。



そんな思いをしながら叩いたドアの声は、震えるように小さく、逆に店の中に響いたのか心配になった。

営業中なのだから、私は小さなドアの声を聞くと、そろそろと店の中に入った。

ガチャリと、ドアが閉まる声がやけに大きく聞こえた。






私が店に入ったのとほぼ同時に、彼と目が合った。

まっすぐにこっちを見てくるその視線に、蛇に睨まれた蛙のような状態になってしまった私に向かって、

彼は、あっ!と大きな口を開けて、笑顔で私のことを指差した。


私は慌てておじぎをした。なんだか、あの日の夜と同じみたい。



こちらに近づいてきてくれた彼に向かって、私は紹介の紙をおずおずと見せた。

何度も人に見られてきた紹介紙が、手の中で小さくふるりと震えた気がした。




私の紹介紙を彼は、まっすぐな瞳で読み取ったかと思うと、

カウンターの方に戻って、メモ帳にさらさらと何かを書き始めた。



書き終わると、彼は私にそのメモ帳を渡してくれた。

簡易で真っ白なメモ用紙の上に、大きな文字が姿を現していた。




『チセっていうんだな。あらためてよろしくな!』



文字は、紙の上で踊っているかのようだった。

力強く、濃く、大きく書かれたその文字は、彼の雰囲気をそのまま表していた。




私は、いつも持ち歩いているペンの蓋を取ると、彼の文字の下に小さく文字を綴った。



『あのときはありがとうございました。これから、よろしくお願いします。』


その文字は、彼の文字に比べると遠慮がちで小さく縮こまっていた。



けれど、私の文字を見た彼の顔が、ぱっと口角が上がって、さっきより笑った顔になった。

なんだか、とても満ち足りた気分になった。


彼はメモ帳の次のページに、新しい文字を書き始めた。

私はその様子を、ドキドキとした気分で、待っていた。




『たくさんの荷物だな。』


『この村の人たちが、とても親切で。全部おそそわけなの。』


『そっか。さすがあの人たちだな。』


『引っ越してきたばっかりだから、とても助かるわ。』



『じゃあ、俺も引っ越し祝いを渡さないとな。』


彼がその文字を書いた瞬間、私はびっくりして首を横にふった。

すでに出会った当初から、私は彼のお世話になっているのだから。



『そんな、気を使わないで。』


慌てて、私は彼のメモ帳に文字を綴った。

早く彼の目に見てもらおうと、急いで書いた文字たちは震えた雑な姿だった。



『大したものじゃないから。』


『でも・・・』



彼は、メモ帳の一枚をちぎるとそれにさらさらと文字を書き、

今までの二人の会話が綴られているメモ帳を、私に向かって差し出した。



そのメモ帳の上に、さっきちぎったメモ用紙を添えて、彼は口角を上げて笑った。




『つまらないもんだけど、これあげるな。俺と会話するときは、このメモ帳でやろうな!

ちょっとしょぼいけど、俺からの引っ越し祝い』



メモ用紙を読んでから、彼の方を見た。目を細めて、口角をあげて笑っている。

私の胸が、とくんと躍った。


ぎっしりと白紙の頁がつまったメモ用紙が、これから私と彼だけの会話で埋まっていく姿を想像して、

ただただ嬉しくて、ぎゅっと手の平の中にメモ用紙を閉じ込めた。


彼に向かって、彼ほどは上手な笑顔は出来ないけれど、

嬉しいことを精いっぱい伝えたくて、私は彼と同じように大きく笑った。






温かくて優しい気持ちを吸い込んで、

私はそのあと、笑顔の彼におじぎをして牧場に帰って行った。




家に着いた後で、私は彼が書いたメモ用紙をもう一度広げてみた。


手のひら少し大きめの紙の上で、彼の文字が用紙いっぱいに踊っている。







大きく太く、濃いその文字。

少し傾いて、荒っぽい文字。


まっすぐ率直で、少し不器用なその文字を私は、ゆっくりと指でなぞった。




たまらなく、愛しい気持ちになる文字だった。












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