幼いときの記憶は覚えてない。


思い出そうとすると、とろんとした海のような世界を、たゆたっているような気分になる。

手を差し伸ばしてもなにも掴めなくて、何色にも変わらないその世界の中に触れてみたくて、

指先の中で転がして、母や父の温かさや優しい空間の中に、顔を埋めてみたかった。


でも思い出せない以上、その空間を私の中に作り出すことは出来なかった。

だから私は、私自身で、この手でそんな空間を作ってみようと思った。



経験したこともない牧場の経営をしようと思い立ったのは、そんな理由からだった。






馬と荷車は、叔母さんからの贈り物だった。

荷車は何十年も前に購入したものらしく、ボロボロだったけれど、

叔母さんが夜なべして丹精こめてほつれを直してくれていた。


茶色や黄色に変色した布の上に、その色に似た綺麗な布が縫い直された糸目を指でそっとなぞりながら、

私は、最後まで優しい叔母さんの温かさを、胸に縫い付けておくことができた。






けれど、長旅ももう少し終わるというところで、荷車は横転して破損し、リロンは足に怪我を負ってしまった

ばらばらと自分の身体の一部が、食いちぎられたみたいだった。


引っ越しそうそう、なんてついていない。




このはな村に着いて、イルサさんから説明を聞き終わるころには、

私は、くたくたに疲れ果ててしまっていた。




役場から自分の牧場までもう少し・・・というところで、私の足はぺたりと地面についてしまった。

長旅の疲れ、リロンの痛みで歪んだ悲しい瞳、叔母さんの優しさがつまった荷車の壊れた部品。

地面に足を立てているだけで、ばらばらと崩れてしまいそうだった。



少し休憩しよう。

横転したときの手足の傷がじくじくと、身体に痛みを与えていた。

私は道の端に手足を引きずっていき、少しの間だけと頭の中で思いながら、腰をおろした。



20、呼吸を数えたら自分の家に向かおう。

大丈夫、あと少しなのだから。



ふー、っと息をつく。呼吸を整えて、ばらばらになった気持ちを落ちつけよう。

明日からはイルサさんに本格的に教えてもらいながら、牧場生活がスタートするのだ。

たゆたう海の中で、さまよってばかりはいられないのだから。



こんな自分にでも出来るだろうか、なんてもう考えない。

それが叔母から離れて生活しようと決めたときに、決心した目標だった。






よし、家に行こう。

これから帰る場所になる私の空間に。

20を数え終わると、私はぐっと足に力を込めようとした。



それとほぼ同じ、いやそれよりも早く私の上に影がさした。

ぐんと、伸びてきた影に私の身体はすっぽりと覆われた。

私はびっくりして影の持ち主の方を見た。





男の人だった。



茶色の髪を後ろにくくり、肩幅が広く大きな身体のその人は、

瞳を不思議そうに私の方を向けていた。



男の人の口が、数回動いた。

私はそれと同じくらい、ぱちぱちと瞬きをしてしまった。


首をかしげている。私が反応しないからだ。

私は自分の手を耳にあてて、首を横に振った。

何度もしてきたサイン。何度も見てきた驚いた表情。


私は自分の手の平の上に、指先で文字を書いた。

こんな暗がりじゃ、もしかしたら見えないかもしれないと思いながら、

男の人に伝わりますようにと、言葉を綴った。




男の人は、大きく二度頷いた。


ああ、分かってくれた。そのことがひどく嬉しかった。

新しい村の中で、私のことについて知ってくれた人がまた一人増えたことが、

私の新しい空間を作り上げていくその一歩になるような気がして、

たゆたっていた私が地面に足をつけたような気がして、嬉しかった。



私が小さく笑うと同じくらいに、男の人は私の前で後ろ向きにしゃがむと、こちらを向いてきた。


おぶってくれるのだろうか。

私がぱちぱちとまばたきして、いいですと手を振っても、

男の人は首を横に振って、催促するように手を小さくこまねいている。


私はどうしたらいいのか分からなくて、おずおずと男の人の背中に乗った。

男の人は、一度私の方を向くと、小さく笑ってぐんと起き上がった。




こんなに背が高かったんだ。


男の人の視線から見る世界は、私が見ている世界と全然違うように見えた。

地面の見え方とか、草木の近景とか、空気の感じ方まで違うような気分になる。


この体験をなんていったらいいのか分からなかった。

私は引っ越しと同時に、違う世界に足を踏み入れてしまったのだろうかと錯覚まで起こしてしまいそうだった。




背中から伝わる男の人の体温が心地よかった。

ひどく優しい足取りで、男の人は私の牧場に向かっていく。

一歩がとても大きくて、その度に世界が変わっていくかのようだった。


温かい。そしてなんだか懐かしい匂いがした。

日だまりの中で元気よく育った飼い葉のにおいだったり、

動物特有のにおいだったり、いろいろな温かい部分だけをすくいあげたような、ほっとするにおいだった。


初めて会っていきなりおんぶされているというのに、

なんだか安心してしまって、私は騒いだりおびえたりすることもなく、

ただじっと、男の人の背中の上にうずくまっていた。



初めて会う人にこんな感情を抱いたのは、初めてだった。

その温かな背中に、頬をそっと寄せたい気分にさえなった。



ボロボロで、ばらばらになりかけていた私の身体を、そっと毛布でくるんでくれたみたいで、

私はずっとこの背中に、身体を預けていたかった。




やがて、といってもすぐだったのだけれど、

私の牧場の、私の家の前に男の人の足は止まった。



するりと、ひどく優しく、温かく、男の人は私を手で支えながら、地面に下ろしてくれた。

私は降りると、すぐに男の人にぺこりと頭を下げた。


今更ながら、恥ずかしさと申し訳なさで胸がいっぱいになってきた。

頬がこころなしか赤くなってきている気がする。




そんな私の頭を、男の人はぽんぽんと軽くたたいてくれた。


私が顔を上げると、にかりという言葉がぴったりな笑顔を、私に向けてくれた。

背中の上で感じていた温かさとか、優しいさとか、明るさとか、

そんなすべての要素を、贅沢にふんだんに使った笑顔だった。



男の人は、彼の大きくて頑丈そうな手を私の前に差し出してきた。


私もおずおずと手を出した。

彼と比べると私の手は細っこくて白くて、かよわしかった。



ぎゅっと握手をして、(とても温かくて、その温かさは電流のように私の指先に伝わってきた)

もう一度笑ってくれた男の人が、私の手のひらを左手で持つと、

右手で勢いよく、私の手のひらを文字の形になぞった。


それから私の顔を覗き込み、男の人は自分自身を指差しながら、口を三回動かした。

唇の動きから私の手のひらに書いたのと同じ言葉を、言っているようだった。



じゃあな、と多分言っている口の動きと、

軽く手を振りながら、男の人は背を向けて私の牧場から遠のいていった。








キ リ ク 






まるで、台風のようだった。



私の手のひらの中になぞられた指の跡。

彼の名前は嵐にのって、確かな跡として私の心の中に残っていった。









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