こんこんこん。



控えめなドアを叩く音に、ふっと水晶玉から目を離して、魔法使いは視線を上げた。


師匠からもらった水晶玉は、ちらちらと不思議な光を放っていて、見ていて自然と気分がやすらいだ。

だから、魔法を使わない時でも、ぼんやりと眺めることがたびたびあった。

ちょうど、望遠鏡レンズを通して星を眺めるのと同じように。


水晶を通して不思議な瞬きを見せる星たちを眺めているような気分になった。





こんこんこん。



小気味よくドアを鳴らす音がもう一度耳にすべりこんできた。


魔法使いは面倒くさそうにゆるゆると立ち上がり、ドアの方へと歩を重ねた。

ドアノブをひねり、カチャリという音とともにキィーっとドアが開く。




始めにドアの向こうの景色で目に映ったのは、真っ青な空だった。



まぶしい。

普段お昼はうつらうつらとしていることが多く、滅多に外に出ない魔法使いにとって、目がちかちかする青さだった。



眩しさに目を細めながら、魔法使いは来訪者を確かめた。


空から視線を映したので、始めに見えたのはふわふわの甘色の髪の毛だった。

もうそれを目にしただけで、魔法使いは来訪者が誰か分かったのだか、

視線を髪から落として、彼女の薄紅色に近い明るい瞳を見つめた。





「ヒカリ。」


思わず、声が出る。





「こんにちは。」



ヒカリは、にこりと笑うと右手に提げていたもの顎の高さまで上げて、ちょっと振ってみせた。



「今朝、珈琲豆が収穫できたから、粉にしてきたんです。取れたて挽きたてを持ってきたくて。」



お昼よりも夕方や夜に来ることが多かったから、

魔法使いはぱちりと瞬きをして、ヒカリが持っている珈琲の粉を見つめた。



「…ありがとう。」


「いいえ。」


「入って…、…もうすぐ、雨が降ると思う…。」


キィィ、とドアをより開いて、ヒカリが中に入るのを促した。

ヒカリは珈琲粉を持っていた手を提げると、こくりと頷いて、家に入った。



「さっそく、珈琲を煎れましょうか?」


家に入るとヒカリは、くるんと魔法使いの方を向いて明るく答えた。

彼女の柔らかな声に、こくりと頷いて、魔法使いは返事をした。





「ああ…。今日は、俺が淹れるよ…。」



珈琲の粉を受けとろうと手を差し延べながら、魔法使いは言った。

静かな、ぽつりぽつりという声。

まるで、小さな雨のようで、安心する声だとヒカリは思った。






「ほんとう?」


「うん。ヒカリは、…そこに座ってて…すぐ煎れるから。」



先ほど自分が座っていた席を指差して、魔法使いはコーヒーを煎れ始めた。


ヒカリは、はいと頷くと、とことこと椅子の前に歩を進めて、すとんと座った。

そして、不思議そうに目の前を水晶玉を眺めていた。


薄青色をまとう透明色の水晶玉は、真ん中の辺りを覗くと、なんという色か分からない、不思議な色が入り混じってい
た。



占い屋さんと町の人から言われている魔法使いは、毎日この水晶を見て、様々なことをヒカリに教えてくれた。

天気の機嫌やこの土地の自然の表情。

相性占いも出来ると、魔法使いの口から聞かされたときは、ヒカリは思わずびっくりしてしまった。




一度水晶玉がなくなった事件のときのお礼に、無料で視てあげるといわれたのだが、

その占いだけは、ヒカリはまだ一度も頼んだことはなかった。




今、水晶玉を目の前にして、一体どうやってさまざまな事象を読み取ることが出来るのだろうと、

ヒカリはあらためて不思議に思った。


ヒカリがその謎を解き明かそうと、じっくりと水晶玉を見つめていると、

魔法使いがマグカップを二つ手に持ってヒカリの元にやってきた。



ことりと音を立てて、マグカップがヒカリの前に置かれる。

その音に気づいて、ヒカリは魔法使いの方に顔を上げた。



「ありがとうございます。」


「そんなに・・・それが、不思議・・。?」


いつの間にか、違うところから椅子を持ってきて、

ヒカリの斜め向かいに座った魔法使いが、ゆっくりと聞いてきた。





「はい。・・・不思議な色。水晶なのに、中に色んな色が混じっているみたいですね。」


「魔法の元が、詰まっているから・・・。」

「わあ、そうなんですか?」




「分からない・・・。でも、俺の師匠・・そう言っていた・・。」


「なんだか、それを知ったらますますこの水晶が不思議に思えてきました。」


マグカップを持ち上げて、口元に寄せながらヒカリはそう言った。

ゆるゆるとカップの中から薄っすらと湯気が生まれている。


熱いコーヒーは、外から来たばかりのヒカリの冷たい手を温めてくれた。




「おいしい。」







珈琲の匂いが、空気に触れて広がっていく。とても、温かな時間だった。


ヒカリがこの家を訪れるようになってから、すでに半年以上が経っていた。

あの頃はまだ、牧場経営を始めたばかりだったヒカリも、今では仕事の要領を得て、

この家でのんびりと二人で過ごす時間が増えつつあった。


人とこんな風に接したことがない魔法使いにとって、戸惑いと嬉しさの混ぜあった不思議な感情について、

なんと言えばいいのか、まだ分からなかった。





気づけば、ぽつぽつと降り始めた雨が水滴となって、家の窓を濡らしていた。

あ、とヒカリが声をあげる。

魔法使いもつられて窓の外に目を向けた。


こんぺいとうのように可愛らしい雨だった。

もしも雨がちらちらと光っていたら、星が降ってきたのかと勘違いしていたかもしれない。




「降ってきちゃいましたね…。」


「雨宿り…していけばいい…。」


きっと2時間ほどで止む小雨だから…、と魔法使いは言葉を続けた。



ヒカリはいつもは夜にくるのだから、2時間くらいいても、

いつも家に帰る時間と大差ない時間になるだろうと、魔法使いは思っていた。



それくらい、彼女はいつも魔法使いの生活リズムに合わせて、この家に訪れて話し相手になってくれていた。



「ありがとうございます。…でも、今日はアルモニカでチハヤさんに料理を見てもらう約束をしたんです。

だから、そろそろ行かないと。」


「・・・そうか。・・・傘は?」


滅多に外に出ない魔法使いの家には、傘は一つも置いていなかった。

でもヒカリが雨に濡れて風邪を引いてしまうくらいなら、自分のローブを貸そうと手をかけた。


それをヒカリがそっと両手で押さえて、やんわりととめた。




「平気。走ってすぐだから、大丈夫です。」


にこりと微笑まれたら、手を止めるしかない。

所在なげに手を降ろす。


なんだか、変な気持ちだった。

ぐにゃぐにゃとしている。

生暖かい珈琲を魔女に無理やり飲まされたみたいな気持ちだった。


自分の気持ちがどうしてこうなるのか。それが分からないことが、不思議でたまらなかった。


こんなこと、初めてだった。

たまらなくなった。




そして、なんの前振りもなく、魔法使いは、彼女の頬にそっと手をおいた。

さらりとした柔らかな感触が、指の皮膚を通して伝わってきた。



「・・・どうしたんですか?」



ぱちぱちと軽く瞬きをしながら、ヒカリが不思議そうに小首を傾げた。

彼女の薄紅がかった茶色の髪が、魔法使いの手の平に少しかかる。



ヒカリの声を聞いて、魔法使いは初めて自分がとった突発的な行動に驚いて、

すっ、と手の平を彼女の頬から離した。



頬を離れても、自分の右の手の平に熱が残っているのを感じた。






「…ちょっと泥が、…ついていたような気がして…でも、大丈夫だった…。」


口からするするとごまかしの言葉が出てくる。

ヒカリに知られなくなかった。


ほとんど自分でも気づかないような、突発的な行動だったことを。




「ほんと?ありがとうございます。」



今朝、珈琲豆を収穫していた時に、汚しちゃったのかもしれませんね。

そう言いながら、ヒカリが恥ずかしそうに、自分の頬を押さえた。

先ほど魔法使いが触れていたところだった。




「いや…」

自分のついた嘘を、彼女が信じてくれていることに罪悪感を覚えながら、魔法使いは首を振った。




「それじゃあ、今日はこれで。また来ますね。」


「・・・ああ。」



笑いながら小さく手を振って、ヒカリは小ぶりの雨がこんぺいとうのように降っている外へと出ると、

酒場アルモニカの方に走って行った。

彼女の背中が建物の影に消えるまで、魔法使いはヒカリの後姿を見つめていた。




しゅわしゅわと心の中で何かが消えていくような音がした。


なにが消えていくのが、どうしてこんな気持ちになるのか、初めての経験で、

魔法使いにはひとつも分からなかった。











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