日が沈んで、ちょっと経ったっという具合だろうか。 魔法使いは、本の文字を追いかけることをやめて、顔を上げた。 窓の外はすっかり夜の顔だった。今日は、月が出ていない。 星の見え方もかわって見えるだろう。 魔法使いは、パタンと本を閉じて机の上に置いた。 そして、珈琲を淹れる準備を始めた。 カップを二つ出して、お気に入りの珈琲の粉を入れる。 最近、新米の牧場主である彼女が、持ってきてくれた粉だった。 今日も、彼女が訪れる約束をしている。 魔法使いにとって、カップを二つ出して珈琲を淹れて彼女を待つことは、ほとんど日課になっていた。 こんな風に、人が毎日のように家を訪れるということは、習慣がなかった魔法使いにとって、初めての感覚だった。 カップがふたつ並んでいることも。珈琲のおいしさにあらためて気づいたことも。 星を見る時間が減っても、それでもいいと思ったことも。 とんとんとん。 淹れたての珈琲が入ったカップを二つ机の上に並び、 湯気がゆるく流れている姿を見ていると、自宅のドアを叩く音がした。 椅子から立ち上がって、ドアの前に歩いて行く。ドアを開けると、そこにヒカリがいた。 「こんばんは。」 「・・・こんばんは。・・・今日は冷えただろう・・?」 「はい、でも大丈夫です。・・あ、これ。魔法使いさんに。」 家に入りながら、彼女はポーチの中から紫色の毒々しい色をまとうキノコを取り出した。 タムタムダケだ。 薬としても使えるし、スープにしてもおいしいキノコだ。(ただし、人の身体には恐ろしく合わないらしい。) タムタムの森にしか生えていないので、貴重なキノコだった。 「今日は、タムタムの森に入ったんです。 そこでたまたま見つけることが出来たから、魔法使いさんにって。」 「…ありがとう。…魔女には。…会ったのか…?」 ヒカリからタムタムダケを受けとり、お礼をいいながら、ぽつりぽつりと魔法使いは尋ねた。 「ううん。会いに行こうかと思ったんですけど、日が沈み始めたから、森を出たんです。」 「その方がいい…。夜の森…、あぶないから…。」 「でも、魔女さんには会いたかったなあ。」 残念、といいながら小さく肩を落とした。 タムタムダケが、魔法使いの手の中で、鈍く光っている。 「会っても…、…得にはならないと思う…。」 「そんなこと言ってますけど、本当は仲いいですよね。」 「…そんなことはない…。」 ふふふ、とヒカリは笑いながら、おかわりの珈琲を淹れると、魔法使いに手渡した。 「ありがとう。」 「ふふ、どうぞ。」 熱い珈琲の熱が、カップを通して指の先から伝わる。 淹れたての珈琲の香ばしいにおいが、二人の空間の中に広がっていく。 少し冷ますために、カップを机の上に置いていると、じっ、と見つめてくる視線に気づき、魔法使いは瞳を上げた。 するとヒカリが、カップの方をじっと眺めていた。 初め、珈琲が飲みたいのだろうかと思ったのだが、ヒカリの両手の中にしっかりと、 薄黄色のカップが収まっており、カップからは緩やかに白い湯気が生まれていた。 それでも明るい赤茶色の瞳は、魔法使いの白色のカップの方に視線を注いでいる。 魔法使いは少し首を傾げながらヒカリを見つめていた。 「…こっちの、カップの方が…、よかった…?」 おずおずと、魔法使いは口を開いた。 ヒカリはぱちりと瞬きをすると、その言葉を耳に収め終えると、頬を赤く染まらせた。 まるで、リトマス研紙のようなヒカリの反応に、魔法使いはぱちぱちと瞬きをした。 「ち、違うんです。」 「?」 「ただ、えっと、・・・魔法使いさんの手が、大きいなあと思って…。」 「俺の…手…?」 魔法使いは不思議そうに、己の右手の手の平と甲をひっくり返しながら見つめた。 浅黒くて骨張った手。 師匠には華奢だと言われたこともあった。 何十年も大きな変化がなかった自分の手について、感想を持たれるのは久しぶりのことだった。 不思議そうに、手を見つめていた魔法使いの前に、すっ、とヒカリが左の手の平を見せた。 白い皮膚の表面は、小さな赤い豆ができている。 「ほら。」 ヒカリは左の手の平を、魔法使いに向けて、小さな声で言った。 ため息にも聞こえるような声だった。 魔法使いは息を沈ませて、自分の右の手の平を、そっと、ヒカリの左の手の平の前に持っていった。 皮膚と皮膚が重なりあう瞬間まで、ひどく長いような、一瞬のような、変な気持ちになった。 今まで出会ったことのない妙な感覚に襲われながら、魔法使いはぱちりと瞬きをした。 右の手の平と、左の手の平が、重なる。ヒカリの手は暖かく、魔法使いの手の平は、ひんやりと冷たかった。 白と黒。 まるで、正反対だ。 ヒカリの豆がある白い手の平は、魔法使いの手の平に覆われ、魔法使いからは見えなくなった。 比べてみると、魔法使いの方が、第一間接と少し分の指が長かった。 ヒカリの指に触れていない指先が、ひどく冷たく感じた。きっと、ヒカリの手の平が温かいせいだ。 思えば、こんな風にヒカリの手に触ったのは、初めてのことだった。 「…ね?」 まだ薄紅色を浮かばせる頬を、小さく緩ませて、ヒカリが確かめるようにそう言った。 その言い方が、二人の共有の秘密を作った小さな子どものような言い方だったので、なんだか可笑しくなって魔法使 いも小さく笑った。 「…ああ。」 こくりと頷く。 どちらからでもなく、そっ、とお互いの手の平を離した。 なぜだか分からないけれど、ぴったりと糊でくっつけた紙を無理矢理剥がすような気持ちになった。 二人で視線を合わせてゆるりと微笑むと、お互い自分のカップに手を添えた。 触れた時の、自分のではない他人の温かさが、まだ手の平に残っている。 それが、無性に嬉しかった。 いつの間にか、カップから流れていた珈琲の湯気が、部屋全体に緩やかに流れていた。 |