不満足 side-c チハヤとアカリの関係は、とても順調にいっている。 事実、二人の間になんの支障もなく、ささいなじゃれあいはあっても、 後に残るようなケンカは一切していない。 恋人としては非常に穏やかな関係を築いているといっていいだろう。ただし、他人から見える範囲では。 「……アカリ」 「うん? どうしたの?」 「いや、なんでもないよ」 笑みを浮かべれば偽物めいたものになるだろうとわかっていたので、 チハヤはアカリの髪に唇を寄せてごまかした。 行為のあとは苛立ちに似た燻りを胸に抱えるのが常だった。 それは、アカリが下手な演技でチハヤを騙せていると思い込んでいるせいかもしれないし、 ストレートな欲望をぶつけることができないもどかしさ故かもしれない。 眼前にある丸い肩と浮いた鎖骨の流れに噛み付きたい。 うすい皮膚はかんたんに突き破ることができるに違いない。 彼女の悲鳴交じりの嬌声はきっと耳に甘いはずだ。 (できるわけないけど) チハヤにとっての性欲と征服欲はよく似ていて、それがいかに歪んだものであるか、 自覚しているからこそ、無防備という名の誘惑が手の内にあっても衝動は堪えなければならなかった。 もうずいぶん前、アカリとはじめて一晩を過ごした頃からずっと、 チハヤにとってアカリとの夜はごく当たり前な喜びとともに、身を焼くような苦痛が伴うものだった。 生まれてはじめて失いたくないと思った恋人を前にして、チハヤは己の性癖を隠すことに決めた。 悟られまいと気を遣えば遣うほどに、優しく穏やかなばかりの交接になるのは仕方の無いことだったが、 それでも、その事実に気付くまでは耐える意味もあったというのに。 達した振りをする。 そういう女が多いことはチハヤも知っているが、まさかアカリが、と最初は疑った。 結局、冷静さを持って見てみれば、さほど経験の多いわけでもない彼女の演技は、 簡単に見破ることができる稚拙なものだった。 夢中になっているのはチハヤのほうだけだったのだと気付かされたとき、 チハヤは自分のなかに火がつくのを見た。 (ねえ、なにが不満なわけ?) (して欲しいことがあるなら言えば?) (その声も演技なの?) 溜まった鬱憤はチハヤの加虐心を痛いほどに刺激する。 責め立てる言葉ばかりが喉元を駆け回っても、 それをぶつけることは関係の終焉を近づけるようで、チハヤは歯をかんで口を塞いだ。 客観的に考えれば、アカリに非はないはずだ。 それが彼女の思いやりや優しさから発露したものなら、チハヤは気付かない振りをしたままでいればいい。 (僕がこんなに我慢してるってのに) それでも、理不尽な思いばかりが募るのは、自分でもどうしようもなかった。 いっそ身体の関係などなければ、チハヤにとってアカリは最高の恋人だと言えたはずなのに。 翌日、開店前の店の奥、店主たちの居住スペースでチハヤは欲を吐き出していた。 息を整えるのに数分、お互いを見ないようにして衣服を身に着けることにももう慣れてしまった。 手入れの行き届いた金糸を束ねながら、女がこちらに背を向けたまま言った。 「いくら身体の相性が悪くってもさ、いつまでもこんなことしてちゃダメだよ」 「よく言うよ。そもそも今日誘ってきたのはそっちだろ」 黙り込んだキャシーに、チハヤは肩をすくめた。 チハヤにはチハヤの不満があるように、キャシーもまた思い通りにならない感情を持て余している。 「どうせまた、オセと上手くいってないって言うんでしょ」 「……アタシとオセは付き合ってるわけじゃないからさ」 でも、と振り返ったキャシーの目は真剣だった。 「アカリとチハヤは違うだろ。お互いが好きで一緒にいるんだから、ちゃんと向き合ったほうがいいと思うんだよ」 「向き合う? どうやってさ。サディストの気があるから、セックスのときは虐げさせて欲しいって? 僕が女だったらさっさと別れるね、そんな男」 「でもさ、チハヤ」 「共犯でいるのがつらくなったらそう言えば? 別に僕は君でなきゃいけない理由もないし」 チハヤはキャシーの部屋を出た。ハーパーに気付かれないよう慎重に配慮するのはいつも彼女のほうで、 店主と踊り子が外出しているタイミングで、キャシーから電話が入るのだ。 閉めた扉の前で、チハヤはため息をついた。 いつだったか、閉店した店内でお互いに酒を飲みすぎた日の過ちがはじまりだった。 恋情のために我慢を重ねてきた身体は、あっさりチハヤを裏切った。 簡単に言えば、アカリ以外の女と寝ることでストレスを発散したのだ。 思いやる必要も無い相手との行為はあまりにも気楽な運動で、歪んだ性欲を満たすにはちょうどよかった。 (でも、もう終わりにしないと) 欲しいのは快楽だけではない。 大切にしたいと思う気持ちも偽りではないのに、 泣き叫ぶアカリの声を想像するだけで熱いものがこみ上げる。 (間違っているのは僕のほうだ) たとえ、この先どれほどの苛立ちを抱えることになっても、アカリの手を離すことだけはできないのだから。 がらんとした酒場の店内、カウンターの脇に立ったチハヤは、言い知れぬ虚しさから目を逸らした。 |