パチリと、夢から引き戻された。



今起きたばかりなのに、とても頭がはっきりしている。

夢の中があまりにもまどろんでいて、ぼんやりとしていたからだろうか。



ベッドから起き上がると、ちゅんちゅんと愛らしい鳥の鳴き声が聞こえてきた。


夢の中でもぼんやりとしていたのに、夢の内容ははっきりと覚えていた。

チハヤの髪。瞳の色。指の長さ。足の軽やかさ。そしてあの、睫の美しい動き。

なぜ彼のことを夢でみなければならないのだろう。

あたしの胸がちくちくとうずきはじめた。






朝が始まっている。


軽いご飯を食べて、動物たちを放牧して、畑に水を蒔かなくちゃ。

果樹園の世話もある。もうすぐ卵が孵る時期だから、新しい命を迎える準備もしなくちゃいけない。




けれど、身体が動かなかった。何もしたくなかった。何もできなかった。

ただ、彼のことだけを、チハヤのことだけを考えたかった。



殻で塞がなくてはいけなかったのに。溢れ出てくる想いを止めることができなかった。

あたしはふらふらとベッドから降りた。

地面がシュー生地のようにふわふわしている。あの時と全く同じ感触だ。

ばらばらになってしまったあたしの心体が、シュー生地の上で弾んでいるようだった。




これ以上立っていられなくて、あたしはベッドの上に腰を下ろした。

くるくると踊り子のように頭の中が渦巻いていて気持ちが悪かった。




目を瞑る。


すぐにチハヤの姿がでてきた。



あの時の目であたしを見つめていた。





『別れよう。』




そう、冷たく言い放ったときの目だ。

思い出すだけでぐさりと刃のように胸に突き刺さってくる。



痛い、冷たい。ぎゅっぎゅっぎゅっ、と心臓が壊れてしまわないように抱きかかえていたのに。

信じていたことに裏切られたとき、あたしの心体はばらばらになってしまったのだ。



あたしはぎゅうと、目を瞑った。彼の残像を消してしまいたかった。



すると今度、あたしの頭の中に現れたチハヤは、あたしに向かって手を伸ばしていた。

チハヤのすらりと長い指が、まっすぐあたしに向かっていた。


紫色の瞳を緩ませて、彼は笑っていた。

ぱちりと瞬きをする。やはり、美しい動きだった。





『アカリ。』



そう、言ってくれているような気がした。もしかしたら言っていなかったのかもしれない。


頭の中のせいで空気に触れることができないから、彼の唇が動くだけで、彼の声は伝わってこなかったけれど。

彼があたしの名前を呼んでくれたかもしれないというだけで、あたしの心に、確かに、何かが芽生えた気がした。




そう感じた瞬間、ぼたぼたっという表現がぴったりなくらい、あたしの瞳から涙が流れてきた。


まるでぼたん雨だ。


頬に転がり落ちる雫たちを手のひらで受け止めながら、あたしはきゅっと目を瞑った。





傷が出来て、痛かった。


この傷を治すのには、痛みが必要だった。





けれどあたしは、再び味わう痛みにおびえて治すことを拒否した。痛みから目を逸らした。

傷を治すこともせず、にぶく、ただ奥底にうずくまって、転がしておいた。


放っておけばいつか、傷があったこと自体を忘れることが出来る。

淡い期待を抱きながら、あたしはその傷から目を逸らした。

けれどそれは、ただの錯覚だったのだ。





夢で会えるだけでも嬉しかった。



チハヤとの過去を、頭の中で転がしながら、

もうきっと築くことができないチハヤとの未来を、それでもあたしは想像してしまった。




チハヤが、あたしにとってはとても大切な存在だったのだと、やっと、いま、気づいた。気づくことができた。

気づいたら、なぜ今までそんな当たり前で大切なことに気づかなかったのだろうと自分が信じられなかった。




あたしはもう一度、チハヤの姿を思い浮かべた。


彼の姿を思い描くとき、あたしはいつも彼のあの美しい瞬きから思い出した。

パチリと音がはっきりと聞こえてきそうな瞬き。そしていつもあたしの身体の一部に触れていた手。



すらりとした彼の指が私の身体のどこかに触れているとき、

チハヤ自身だけでなく、私自身も心の底から安心することが出来たのだ。






涙が頬を流れるとき、なぜだかすっきりとした気分になった。


今まで流してきたどんな涙よりも、涼やかで優しい気持ちになれた涙だった。




最後に左の頬を伝った雫を、左の手のひらで受け止めて、あたしはようやくベットから立ち上がった。

足には、もうシュー生地の感触もなく、くるくると頭の中で踊っていた踊り子も姿を消していた。



朝ごはんはミルクティーとシュークリームにしよう。


きっと彼がいたら怒られるメニューだ。



ミルクティーとシュークリームを胃袋におさめることができたら、キャシーに謝りにいこう。


やっぱり、彼の声が聞きたくなったのだ、と。







 



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