初めて牧場に来てから幾日も過ぎ、ようやく牧場という仕事に慣れ始めた頃のことだった。




仕事を始めてから、昼食を作る余裕もなくて、あたしはそのほとんどをキルシュ亭ですませるようになっていた。


今日もお昼過ぎに、連日のごとくキルシュ亭に足を運んだ。

ユバさんの作る大好物のミートスパゲティを口に入れる想像をしながら、あたしはキルシュ亭のドアを開けた。




ガチャリ、キーっと少し年をとったドアが、それでも元気に仕事をしてくれた。


はいはい役目は終わりですよと言うように、

パタンとドアが鳴るのと同時に、鼻に飛び込んでくるおいしいにおいに私は少し目を細める。




きわめていつもと同じ行動だった。


けれど、目の前に広がったのは、毎日ある風景とは異なったものだった。



「おや、きたね。いらっしゃい。チハヤ、アカリさんだよ。この店の常連さんさ。」



チハヤと呼ばれた青年が、ふっとこちらを向いた。

瞳が綺麗な人だと思った。



彼の瞳は、吸い込まれそうなほど鮮やかな色彩を放つ紫の中に潜む深みが、

深海に引き込まれるような気分にさせると共に、

ずっとその瞳の中に浸かっていたいという気持ちを私に芽生えさせた。


彼が一度、瞬きをする。あたしも彼につられるように瞬きをした。





「初めまして、アカリさん。」



彼の声は、よく通る聞きやすい声だった。

あたしの耳の中にそれは、自然と無理がなく滑り込んできた。




「あ、初めまして。」


にこりと微笑まれる。どこか細くて、手を伸ばして包み込んでしまいたくなるような笑顔だった。

それでも彼の笑顔は、周囲の気持ちを和らげるような効果があるような気がした。




「よろしく。」


「うん、こちらこそ。」









はっ、となって目が覚めた。

ぱちぱちと数回瞬きを繰り返して、初めてさっきのが夢だったことに気づいた。

目を瞑れば、暗闇の中、瞼の裏に、夢の中の光景が蘇ってきた。


なつかしい。けれど、もう遠いあの出来事。



とつとつと、殻の内側から音が聞こえてくる。

あたしはその音を拒もうと耳を塞いで、逃げ出そうとしている。

殻は厚く、頑丈につくったはずだった。もう傷つかないために、自分を守る為に作った殻だった。


なのに今、この殻を壊そうとしているのは自分自身だった。

もう一度、とつとつと音が響く。



あたしは、あたし自身の気持ちに蓋をしてしまいたいのに、それでも芽生えようとする。

殻から出てこようとしている。





目を瞑った。

ぎゅうと耳を押さえてみる。それでも、自分の気持ちについていけなかった。


彼との思い出は、もう遠くにあるはずだった。

胸の中に閉じ込めてしまおうと思っていた。


この感情を、どう捕らえればいいのか、まだ私には分からなかった。








波止場に吹き付ける風は強かった。

パシパシと頬に容赦なく当たる自分の髪の毛を押さえつけて、

あたしは海の向こうに消えていく小さな白い点を見つめていた。


今にも、大きな海に飲み込まれてしまいそうなほど、小さく遠い。それがあたしには救いだったのかもしれない。

もし、もう少し近くにでもいたら、手を伸ばしていたかもしれなかったから。






「お見送り?」


「・・・シーラさん。」



赤く萌える髪の毛を、シーラさんは押さえつけもせずに自由にさせていた。

ひゅうひゅうと鳴る風に合わせて、動く髪の毛は、まるでシーラさんの踊りのようだった。



「もっと早く来れば会えたんじゃない?」


「そんなんじゃないわ。・・見てただけ。」



いくらか低くなった声に、苦笑しそうになった。



「それでも、見送っていたように見えたわ。」


「本当に、見てただけなの。」


「あら、どうして?」




彼女はどこまでも余裕そうな声で尋ねてきた。

それがあたしにとっては逆に、言葉を紡ぎ易くさせてくれた。




「確かめてたの。」



ひゅ、っと息を吸った。


これでいいの。心のどこかで誰かが言った声が直接響いてくる。




「あたしの気持ちが、きちんと殻で覆われたのか、確かめてたの。」




「それで?」


「大丈夫、だったと思う。」




ぴゅう、と風が鳴る。

冷たい、けれど寒くない。そんな風だった。



「ねえ、どうしてそんなに気を張っているの?」


「え?」




「あなたにしても、彼にしても、よ。」


「そんなこと。」



「もうちょっと、考えてからでも結論は遅くなさそうね。」



「・・・どういう意味?」




いぶかしげに聞くあたしを、彼女はふふっと笑って一蹴してしまった。




それでも、腹は立たなかった。

ただ、純粋に答えだけがほしかった。



もしも、この殻が綻んでしまうようなことがあるのなら、

あたしはすぐにそこを縫いつけてしまわなければならないのだから。






「さあ?私はそこまでおせっかいじゃないから。」




口元を綻ばせながら、シーラさんは海を見つめ始めた。




パタパタとやっぱり彼女の赤い髪は踊っていて、

あたしは答えを出してもらいたい子供のように、ただ踊る彼女の髪の毛を後ろから見つめていた。


 








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