その日は、灰色の雲が隅々までぴったりと空に張り付いていて、薄暗い日だった。 空模様のようにぼんやりとした気分のまま、あたしは黙々と動物たちを外に出し、畑に水をまいた。 ふわふわとした心持ちは、あたしを宙に浮かせた気分にさせた。 しっかりと地面に足をつけているはずなのに、その意識さえもが危うい気がして、あたしは何度も足元を見た。 こんな時に、チハヤに会えたらいいのに。 すっと長い彼の指先があたしに触れてくれれば、気分を落ち着かせることができる。 もうすっかり、中毒に侵されている。 とりあえず、牧場の仕事が一段落したあたしは、久しぶりにキルシュ亭に足を運ぶことにした。 今のところ、この中毒症状の薬になるのはチハヤしかいないのだから。 その症状の原因となった彼が、唯一の特効薬だなんておかしな話だけれど。 足元がひどく軽かった。 固い地面がとても頼り気がなくて、不安定だった。 キルシュ亭に行くまでの間、そんな両足の軽やかさに付き合いながら、 あたしは、チハヤが焼いてくれたシュークリームを思い出していた。 ふわふわと綿よりも軽いシュー生地と、なめらかなカスタードクリームが舌の中で溶けていくように、 あたしの足元の地面も、実はシュー生地とカスタードクリームだったんじゃないかって思っていた。 キルシュ亭に着いて、飴色のドアをゆっくりと開けた。 店内のフローリングに足を置いた途端、さっきの浮遊感は消え去ってくれて、あたしはほっと安堵した。 「いらっしゃい」という声がメロディのようにあたしの耳に滑り込んできた。 厨房に顔を向けるとチハヤが軽く笑ってこっちに手を振ってくれた。 どっと心に込み上げてきた安堵感を噛み締めながら、あたしもにっこりと微笑んだ。 「いらっしゃい、アカリさん。今日は何にする?」 テーブルに座ったあたしに、マイが明るい声で尋ねてきた。 彼女の声が、あたしの耳の中で弾んで、心地よく響いた。 「うん、えーっと。ミルクティーとシュークリームある?」 「もちろん。でも、お昼ご飯でしょ?ほんとうにそれだけでいいの?」 あたしのおやつぐらいじゃない。と顔に書いて驚いているマイに、あたしは笑って頷いた。 目をパチパチさせながら、マイは厨房にメニューを言いに行った。 あたしはメニューを待っている間、店内の暖かな雰囲気を存分に味わっていた。 コールさんが、お昼ごはんを食べ終えたハーバルさんのお会計をしている。 その横でにこやかな笑みを浮かべながら、ジェイクさんが本を片手に彼女に話かけている。 ほがらかに笑うハーバルさんにつられるように、コールさんも小さく笑っていた。 まるで映画のワンシーンのようだ。 誰も不幸せではなくて、出来すぎたように素晴らしい生活の一遍を、彼等は築き上げていた。 薄暗かった外に比べて、 キルシュ亭の店内はひどく温かくて、不安のかけらなんてひとつも落ちてはいなかった。 あたしは、幸せな空気を吸い込んで、 たっぷりと肺におさめながら、にっこりと微笑みたい気持ちにさえなった。 「アカリ。」 チハヤの声が聞こえた。 すとんと、あたしの耳に滑り込んで、よく馴染む音だった。 「チハヤ。」 「はい、ミルクティー。」 ことりとテーブルに置かれたミルクティーを置くと、チハヤはきゅっとあたしの手を軽く握った。 ほんのわずかの時間だけでも、チハヤのクセはあたしを逃さなかった。 チハヤの手を触れている人差し指と中指と薬指だけが、 他のあたしの身体のどの部分よりも、温かくて、ぴたりとチハヤの熱を受け止めていた。 チハヤが触れている部分だけが、あたしの身体の中で一番あたしらしくなれるのだ。 「ありがとう。」 「今日は家に寄れないんだけど、明日寄るから。その時、ちょっと話があるんだ。」 「今じゃ駄目なの?」 今日の夜はもう会えないことを残念に思いながら、 あたしはチハヤの手が離れてしまうのが惜しくて、急いで言葉を紡いだ。 チハヤは、こくりと頷いた。 「ゆっくりと離したいことだから、家で言おうと思って。いいね?」 「分かったわ。」 「じゃあ、すぐにシュークリームも持ってくるから。」 「うん。」 「ところでさ。まさかそれがお昼ご飯ってわけじゃないよね?」 「え・・・。もちろんよ。」 「僕に嘘がつけると思っているのかい?」 「えーっと。」 「ほら、手が震えた。アカリはいつもそうなんだ。」 思わず目を逸らしたあたしを、こっちを向くように、チハヤはくいっと手をひっぱってきた。 彼の葡萄色の瞳が、呆れた眼差しをあたしに向けていて、ちょっと居心地が悪い気分を味わった。 「あはは・・。ごめんなさい。」 「もっと、栄養があるもの食べないと。カルボナーラ作ってあげるよ。アカリ好きだったよね?」 「いいの、今日は。あまり手持ちがないし。明日の夜にでも作ってよ。」 チハヤは一つ瞬きをすると、しょうがないなという風に、あたしの髪に手を伸ばしてくしゃくしゃにした。 声を立てて抗議するあたしをよそに、チハヤは厨房に戻って行った。 あたしの指と髪にだけ、彼の体温が残っていた。 「相変わらず、仲いいわね。」 ちょうどマイの手によって、シュークリームが運ばれた後だった。 声をかけられた方を向くと、チハヤの瞳と同じ色をしたカクテルを、片手に持ったシーラさんがいた。 「お昼から飲んでるの?」 あたしは目を丸めて聞いた。 実際、彼女のこんがりと焼けた肌は少し赤くなっている気がする。 「水の代わりよ。」 微笑んだシーラさんは、カクテルを持っていない方の手をあたしの肩に置いた。 ふわりと、夏の花のようなにおいがあたしの鼻腔をかすめて、あたしは一瞬目を閉じた。 「あれ、彼のクセなの?」 「え?」 「しゃべるとき、手に触れるの。かならずやってるじゃない?」 あたしは曖昧に微笑んで、どうかなと言葉を濁した。 シーラさんは、あたしの答えに気にすることもなく、カクテルのおかわりを頼みに席を離れていった。 なぜか分からなかったけれど、チハヤのクセをしゃべる気になれなかった。 それとともに、彼女の言葉のひっかかりに、あたしの胸がうずいた。 複雑に絡んだ糸が胸の中にあるみたいだ。あたしは微かに眉をひそめた。 答えを求めるように、チハヤがいる厨房を見つめた。それが、唯一の特攻薬だ。 「・・・チハヤ?」 思わず、小さく声が出た。 細く、小さく言の葉になったあたしの声は、誰にも、もちろんチハヤにも届かずに、空気の中に溶けていった。 厨房にいるのは、ユバさんとチハヤとマイだった。 チハヤの両の手の先には、マイの手があった。 手の大きさを比べるように、ぴたりとチハヤとマイの手がくっついていた。 お互いを磁石のように引き付けあっているみたいに、隙間がないように見えた。 マイが可笑しそうに笑っている。チハヤもだ。楽しそうに笑いあっている。そこは、彼等だけの空間だった。 ひゅっ、と心臓が鳴いた音がした。 悲しみとの似つかないなにか冷たいものが、胸の中に落ちていった。 それは、あたしを見えない布で覆い隠すかのように、身体の隅々まで浸透していった。 あれぐらいは、冗談や話の成り行きですることだ。別に変なことじゃない。 そう思う自分がいるのに、でもやっぱり納得できなかった。一番身体の奥にある部分が、冷たく痛み出した。 どうしたというのだろうあたしは。中毒症状が悪化しているのだろうか。 それともこれは、特効薬の副作用なのだろうか。 もうこれ以上見たくなくて、あたしは目を逸らしたのだけれど、目の隅に移ったマイの明るいブラウンの髪の毛が、 照明によってキラキラと光っている様が、残像としてあたしの瞼に残って、あたしを恨めしい気持ちにさせた。 もやもやとしたものが胸の中に広がって、気分が悪くなった。 頭の中で、チハヤの髪の毛が光に透ける姿と、マイの髪の毛が重なってしょうがなかった。 あたしは、早くこの場所から立ち去りたくて、急いでシュークリームを口の奥に押し込んだ。 胃の中に落ちていったシュークリームの味も全然分からないまま、 あたしはお会計を済ませて逃げるようにキルシュ亭を後にした。 チハヤの行動にも、自分の行動にも、何一つ理解が出来なかった。 |