ふっ、とわたしはドアの方を振り返った。チハヤだ。


わたしは、タオさんからもらった魚に餌をやる手を止めて、急いでドアの前に立つと、ドアノブをひねった。

もう、あの頃のように迷うことはなかった。





「いらっしゃい。」


「あー、寒かった。」




さっき会ったばかりなのに、チハヤがわたしの家に来てくれてるってことが嬉しかった。

ゆっくりゆっくり沈んでいく幸福感が、心地よくわたしの中に落ち着いていく。




「わ、降ってたのね。気づかなかった。」



わたしは、チハヤの背中の後ろでしんしんと降っている雪たちに目を移した。

辺りはすっかり暗くなっていて、だからこそちらちらと光る粉のような雪が綺麗だった。




「アカリ?中入るよ。」

「あ、ごめん。」




ちょっと惜しいけれど、わたしはチハヤが中に入るのを確認すると、ドアを閉めた。


わたしは、チハヤの髪の毛にくっついていた幾つもの小さな結晶を見つけると、軽くはたいてあげた。

小さな結晶は、床に落ちる前にちらちらと光って、見えなくなった。

あの時に出来なかったことをやることは、そっと、密やかに、私の心を満たしていった。






「ご飯、作ってたのかい?」


「ううん、まだ。餌をあげてたの。」

「餌?」

「この子の。」



わたしは相変わらず小さな水槽で、窮屈そうに泳いでいる魚を指差した。

チハヤは不思議そうに近寄って、水槽の中を見つめた。




「どうしたの、これ。」


「釣りに行ったとき、サンドイッチをおそそわけしたお礼に、タオさんからもらったの。」

「ふーん。」



わたしは人差し指を突き出して、そっと水槽をつついてやった。

魚は、驚いて尾をひるがえすわけでもなく、ただぼんやりとした顔で泳いでいる。




「初めは食べようかなって思ったんだけど、わたし魚料理得意じゃないし。結局そのままずるずると飼ってるの。」


「僕、魚料理得意だよ。」


「そうなの?」




「よし、今日のメインはこれにしよっか。」

「え!?」


「アカリ、焼くのと煮るのどっちがいい?あ、新鮮だし、刺身でもいけるね。」

「ちょ、ちょっと待ってよ。飼ってたら愛着沸いちゃって。あんまり食べたくないんだけど。」




わたしの言葉を、チハヤは左から右に流しているのか、なにも答えずに水槽を両端に手をかけた。

わたしは慌てて止めに入ろうとした。


けれど突然、プルルルルルっと、電話が鳴り響いた。

一瞬、わたしたちは目を瞬いて立ち止まった。




「電話だよ。」


「うん。ちょっとチハヤ。ほんとにやめてってば。」


「えー?」




わたしはいそいで受話器を耳にあてた。


早くしないと、水槽の中身は空っぽになってしまうかもしれない。





『もしもし。』


『もしもし、アカリ?』


『あ、キャシー。』



仕事の途中にかけてきているのかな。


受話器の向こうのキャシーの落ち着いた声の先で、しっとりとした音楽が流れていた。

細い線を伝って、それはわたしの耳に沁みるように届いてくる。




『今日、どうだったの?』


『うん。えっとね。チハヤにちゃんと言ったよ。全部。』


『そうしたら?』


『好き、って言ってくれた。』


『おつかれ、やったじゃん。』


『キャシーのおかげだよ。』




くすくすと二人で笑って。


わたしは、受話器の線をくるくると指に巻きながら、なんだか照れくさい気持ちになった。






『あ!』


『どうしたの?』


『ごめん、キャシー。また、話聞いてくれる?魚が焼かれちゃう。』


『さかな?』


『そう、飼ってたやつ。』


『そういえば、前来たときにいたね。どうしたのあれ?』


『タオさんからもらったのよ。』


『・・・あー。』


『なに?』


,『あ、なんでもない。じゃあ、またあたしがいるときにも顔見せに来てよ。』


『うん?それじゃあね。』





カチャリと受話器を置くと、キャシーのハスキーな声も、キルシュ亭で流れているだろう音楽もプツリと切れて、

わたしの耳の中だけに余韻が残っていた。


わたしは、その余韻を打ち消すようにひとつ瞬きをすると、チハヤがいるキッチンへ向かった。




魚の行方はどうなっているのだろうか。

チハヤの手際の良さが、いつもは羨ましくて頼りになると思うのだけれど、今はそれがうらめしかった。




「チハヤ!」

「あ、アカリ。早かったね。」



愛用の包丁を持っているチハヤの姿が、

一番楽しそうにみえてわたしはけっこう好きなのだけれど、

今はわたしの表情を青くするだけだった。




「さ、魚は?」


「これから調理するとこ。」




チハヤは、包丁を持っていないほうの手で、洗い場に置かれていた水槽の方を指差した。

魚は、いまだに窮屈そうに泳いでいる。

まだ、生きていた。わたしは、ほっと息をついた。




「よかったー。」


「・・・そんなに食べたくないの?」

「え?だって、餌をやったらやっぱり愛着が沸くじゃない。」

「ふーん。」




なんだか、怒ってる?

さっきまでは機嫌がいいと思ったのだけれど。


わたしはなにかまずいことを言ってしまったんじゃないかと思って、慌てて弁解するように口を開いた。





「えーと・・・、それに!わたしこの子に名前つけてるの!もうペットの一員なの。」

「・・・なんて?」


「・・・ち、はや?」

「え。」


「あ、気を悪くしたらごめんね。でも、そんな名前だし、食べれないじゃない。」



今つけたばかりの名前は、自分でもちょっとないんじゃないかなって思ったけれど、

口からすべりでてきたものは、もう戻すことは出来なくて、

わたしは自分の軽率というか馬鹿な発言に恥ずかしくなってきた。




チハヤは目をまるくしてわたしを見てる。


そんな気配が、俯いて床のフローリングを見つめていても分かって、

わたしは、頬が熱くなっていくのが分かった。



「・・・分かった。じゃあ今日のメインにこいつを使うのはやめるよ。」


「ほんと?」


わたしは、チハヤの決断にちょっとびっくりして顔をあげた。



でも、その後で、さすがに自分の名前がついた魚を調理するのって、

ちょっと気味が悪いというか、後味が悪そうだなって思った。





「そのかわり。」


ぐいっと、チハヤにひっぱられてわたしは彼の腕の中に閉じ込められた。腰にチハヤの手が触れる。

猫のじゃれあいのような抱擁が、わたしたちの間をぴったりとくっつけた。





「サンドイッチ、作ってよ。」


瞳をあわせると、顔が思ったより近くて。


チハヤの紫の瞳が、すこし悪戯っぽいというか、無邪気な子供のように、ちろりと光った。






わたしは、キャシーが線を伝った向こうで、キルシュ亭の音楽をバックに、


納得したような声を出した意味にようやく気づいた。




とたん、おかしくなって、声をたてて笑って、チハヤをぎゅっと限りなく愛しく抱きしめた。





 


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