どうして、彼じゃなくちゃダメだったのだろう。 彼の瞳はあきらかに彼女の姿を追っていたし、彼の表情や言葉や行動を見れば見るほど、 彼女のことを慕っているということが、分かり過ぎるほど私の胸に響いてきていたのに。 分かっていた。 タオさんはリーナのことが好きだって。 なのに、どうしても諦めたくなかった。 タオさんに認めてほしくて、少しでも同じ場所に立って、話をしていたくて。 本当は、初めてやったときから釣りは向いていないって分かっていたのに、 それでもタオさんに褒めてもらいたくて、少しでも共通の話題がほしかったから、 慣れない釣りざおを必死に使って、仕事が休まるごとに川や海に出かけた。 そっと両手を見つめた。 小さな赤い跡がぷつぷつと手を染めていた。マメができた跡だったり、治りかけている跡だった。 牧場の仕事の中で、当たり前に出来ていたそのマメの中に、いくつか釣りで生まれたものもあった。 それは、仕事のマメと一緒くたになって、どれがそれか分からなくなっていた。 まるで、私のタオさんへの気持ちみたいだった。 痛いのに、向かおうとする。たくさん傷が出来るのに、治りかけては、また傷をつける。 血が流れてこない分、気づかないだけで、傷は心の中でじくじくと泣いていた。 牧場に行って、お祝の品を渡しに行ったのは、きちんと諦めて、 リーナとタオさんを祝福してあげたかったからだった。 きちんと、渡せたと思う。きっと、たぶん。 ハンナさんの顔をきちんと見れたかどうか覚えていない。 震えそうな声を、しゃきっと奮い立たせて、しっかりと言葉を紡ぎだせたかどうか。 ハンナさんの笑顔がきらきらと光る金平糖みたいだった。 眩しくて、輝いていて、とても幸せそうだった。 ああ、私はここに来るべき人じゃなかったのかもしれない。そう思った。 だって、私の今の気持ちはハンナさんとは逆の方向に向かっている。 本当は祝福したいのに、 でも胸の中で生まれてくるのは、悲しみや後悔ばかりだった。 もしも、タオさんに勇気を振り絞って告白していたら、もしもリーナよりもタオさんと仲良くなっていたら、 もしも私の釣りの腕前がもっとよくて、タオさんが私に興味を持っていてくれたら、もっと共通の話を見つけていれば。 もしももしももしも。 そんなことばかり考えている。 そんな私に、ハンナさんの笑顔はもったいなかった。ふさわしくなかった。 きっと、私の細胞に少しでも触れたら、ハンナさんにも私の暗い気持ちが移ってしまう。 私は口早に別れのあいさつをすると、牧場から小走りで逃げ出した。 どこに行けばいいのか分からなくて、アランの樹を目指した。 本当はもっとここから遠いところに行きたかったのだけれど、そのまえに頬から涙が転がり落ちてしまいそうだった。 アランの樹の下で、私はぼんやりと原っぱを眺めていた。 さらさらと風の音が聞こえてくる。草たちがお互いの身体をこすりあわせてくすくす笑っている。 ああ、平和だなって思う。なんて私にふさわしくない場所なんだろうとも思った。 私にはきっと、じめじめとしていて暗くて、小さなところが似合っている。 その中に身体をぴたりとはめこんで、うずくまっていたい気分だった。 結婚式まで、ううん。結婚式が終わってからも、そのあとずっと、 私はこんな気持ちを抱えながら、過ごさなくちゃいけないのだろうか。 また涙が盛り上がってきたから、たまらなくなって上を見上げた。 空が痛くなるくらい青かった。 **** **** **** **** **** チハヤの瞳は、どこまでも澄んでいて、深い色をしている。 こんなに近くで彼の顔を見るのは、初めてのことだったから、私はどうしたらいいのか分からなくなっていた。 触れられた手が、はっとするくらい熱かった。チハヤの手がこんなに大きいことを、初めて知った。 「えっと、あの。チハヤ?」 「好きだよ。」 「・・・・・・へ?」 「アカリのこと。今言うのは反則かもしれないけど、ごめんでも、今言いたかった。」 私はなんていったらいいのか分からなかった。 きっと今、すごく間抜けな顔をしているに違いない。 だって、まさか、そんなことを教えてくれるなんて、思ってもみなかったことだったから・・・。 冗談でしょ?って言いそうになったけど、 チハヤの顔を見たらそんな馬鹿みたいな質問の答えなんてすぐに分かった。 ふわふわしたオレンジ色のチハヤの髪の毛が、風で小さく舞っている。 私は、きっとまだ間抜けな顔をしているだろうけど、 チハヤの勢いに押されるように、おずおずと言葉を紡いだ。 「えっと・・・、チハヤのこと好きとか、よく分からない。だってこんな急に・・・。」 「うん、そうだよね。ごめん急に。」 チハヤがふいっと横を向いた。 私は彼がこの場から立ち去ろうとしているような気がして、 心細さが胸からひゅっと沸き立ってきた。 思わず私はチハヤの薄水色のシャツの袖を掴んでいた。 「待って。ごめんでも、・・・・・・今チハヤに離れてほしくないの。」 チハヤは驚いた顔をして、私を見つめてきた。 私はなんだかたまらなくなった。 なんて馬鹿なんだろう。どうしてこんなに迷惑をかけちゃうんだろう。 でももう一人にはなりたくなかった。おかしな話だって笑われちゃうかもしれない。 さっきまで一人だったのに。 「わがままだって分かってる。何言っちゃってるんだろ私。」 「いいよわがままでも。僕がいまのアカリの気持ち知ってて、わがままで伝えてることだから。」 「僕のこと利用してくれてかまわない。傍にいてほしいなら傍にいるし、近づいてほしくないなら近づかない。」 「そんな、だって。」 「アカリは、自分の気持ちに正直に生きたらいいんだよ。」 チハヤの言葉たちはどれも温かかった。 きっと空気の膜の中に入っているその言葉たちに触れると、私の心までほっかりと暖まるのだろう。 そう思える言葉たちだった。 「・・・・・・・私、タオさんのことが好きだった。」 気づいたら、ぽつりと言葉が生まれていた。 言う気なんてなかったのに、でもいつの間にか言葉が滑り落ちていた。 「うん、知ってる。」 ぽんぽんとチハヤの手が私の頭の上ではねた。 はねたって言葉はおかしいかもしれない。でもお父さんみたいなその手は、ぽんぽんとはねた後、 ゆっくりと私の頭をなでてくれた。それに、すごく安心した。 「ほんとにほんとに好きだった・・・・・・。」 ぽろぽろと魚のうろこみたいな涙が、頬から転がり落ちてきた。 慌てて手で押さえたのだけれど、涙は止まらずに溢れてきた。 まるで、涙腺だけ違う生き物になってしまったかのように、私の言うことを聞いてくれなかった。 チハヤがそっと、人差し指で私の涙を拭ってくれた。 それでも私の涙は盛り出てくるから、何度も何度も拭ってくれた。 目頭がやけどしちゃうんじゃないかって思うぐらい熱くなっていた。 「チハヤ。」 「うん?」 「傍にいてって言うこと自体、すごいおこがましいことだって分かってる。」 「うん。」 「私はきっと、寂しさや哀しさを、チハヤで埋めようとする。」 「うん。いいよ。」 「なんで?そんなの最低じゃない。」 「いいんだ。僕がアカリを好きだから。」 また、涙が出てきそうになった。 チハヤはおかしい。こんなに泣き腫らして真っ赤で腫れた顔して、 他の男の子のこと好きだっていった女の子なんて、 全然可愛くもないし、好きになんてなるはずないのに。 「チハヤって変わってるね。」 「そうかもしれない。」 ふっ、と笑った。 その顔がとてもきらきらしていた。チハヤの笑顔なんてなんだか久しぶりに見た気がした。 人のことを見ている余裕なんてなかったから、 私にとってひどく新鮮で、触れてみたくなった。 ゆっくりともう一度、手を合わせた。優しい温かさが伝わってくる。 この手を私は求めてもいいのか、まだ分からないけれど、 受け止めてくれている、そのことがたまらなく嬉しかった。 「ありがとう。」 瞼を閉じてみる。 瞼の向こうに、目の前にいる人の姿を簡単に思い浮かべることが出来る日も、 もしかしたらそんなに遠くないことなのかもしれない。 |