偶然は必然である。 そう、本かなにかで聞いたことがある気がする。 もしも、これが偶然であり、そして必然として僕の前に起こったことならば、僕は女神を少し恨めしく思ってしまう。 女神の存在なんて、あまり信じていなかったはずなのに。 身勝手だって自分でも思う。 そう、だから。 だから、彼女は僕の前で泣いているのだろうか。 「ありがとうチハヤ。わざわざ悪いね。」 「いいえ、ご注文ありがとうございます。」 にこりと笑いながら、僕はハンナさんに白い箱を渡した。 たぷりとしたハンナさんの指が、大切そうに箱を受け取ると、 箱の中身の匂いを嗅ぐしぐさをして見せて、にこりと微笑んだ。 「今回は、あんたの作品なのかい?」 「はい。ユバ先生が僕に任せてくれたので。初めての作品ですよ。」 「そりゃあ楽しみ。リーナとタオさんも喜んでくれるわ。」 ハンナさんは、いそいそとカウンターの上に白い箱を置いた。 さらっと箱の上を撫でる手は、優しい手つきだった。 この手で何匹もの動物たちを慈しみ、育ててきたのだろう。 ハンナさんの手は、それを思わせる柔らかで優しい手だった。 「チハヤ。お礼にこれを持っておいき。」 ハンナさんがカウンターの裏から、小ぶりの瓶を取り出すと、僕に差し出してくれた。 瓶には濃厚なハニー色をした蜂蜜がたっぷりと入っていて、封をしているのに甘いにおいが鼻を掠めた。 「ほんとですか。じゃあお言葉に甘えて。」 僕は、ハンナさんから蜂蜜をもらうと、カバンの中にそっといれた。 「あ、言い忘れてました。ご結婚、おめでとうございます。」 「ありがとう。二人にも伝えておくよ。」 目尻にできた小さな皺をくしゃりと歪ませて、ハンナさんはこの上もないくらい至福の表情をした。 僕も、その時だけは本当に微笑むことができた気がした。 ブラウニー牧場を出ると、僕はたまには外で昼食を食べようと思って、アランの樹を目指した。 青々とした葉っぱたちがたくさん繁り、腕いっぱいに幹を伸ばしているアランの樹は、 暑い日ざしから逃れるのに最適な場所だった。 カバンの中には、お手製のバターパンが入っている。 それにさきほどハンナさんからもらった蜂蜜をかけたら、きっと最高の出来栄えになるだろう。 丘を越えるとすぐそこに、もうアランの樹の根元まで見えていた。 そろそろお腹の虫が鳴き始めるころだった。 僕は足早にアランの樹に近づくと、見慣れた人影が樹の根元に座っていた。 空を見ていたのだろうか。 上を見上げていた彼女が、僕の気配に気づいてこちらを向いた。 彼女の焦げ茶色の髪が、風にのってひょんひょんと揺れていた。 「・・チハヤ?」 小さな声でアカリは僕の名前を呼んだ。 小動物のように、遠慮がちで、驚いた声だった。 「アカリじゃん。どうかしたのかい?」 「別に。ただちょっと、仕事の休憩中。」 「きみの牧場からは随分遠いところで休憩してるんだね。」 「散歩もかねてよ。」 「ふーん。」 僕は、ハンナさんの顔を頭に思い浮かべた。 嬉しそうな顔。 大切そうに手に持った白い箱。 「チハヤは?」 「仕事帰りに昼ごはん食べようと思ってさ。」 僕は、カバンを揺らしながら答えた。 蜂蜜のにおいは、彼女にも届いただろうか。 「そっか。」 乾いた声だった。 水をもらえない花が、元気をなくして萎れてしまったかのような声だった。 アカリらしくない声だった。 僕は、アカリの隣に腰を下ろした。 カバンの中から、お手製のバターパンとハンナさんからもらった蜂蜜を取り出した。 瓶の蓋を開けると、蜂蜜の濃厚で甘いにおいが空気に触れて、あたりに広がった。 僕はそれを、持っていたスプーンでゆっくりとすくった。とろんとした蜂蜜が、てらてらと光った。 半分にちぎったバターパンに、僕はたっぷりと蜂蜜をかけた。 とろとろゆっくりと、蜂蜜はバターパンの上に舞い降りていった。 「アカリ、食べる?ご飯まだっぽいし。」 蜂蜜をかけたばかりのバターパンを、アカリに差し出した。 アカリはこくりと頷いて、ありがとうと言うと、バターパンを受け取った。 ちょっとだけ僕の指の先と、アカリの指の先が触れた。 でも、ただそれだけで、なんの変化もなかった。 アカリは何事もないように、ぼんやりとバターパンを一口かじっているし、 僕は普通の表情でもう半分のバターパンに蜂蜜をかけていた。 アカリはゆっくりとバターパンを食べていた。 アカリが五口目をかじっているうちに、僕はすっかり食べ終えて、 もうひとつのバターパンを半分にちぎって、蜂蜜をかけていた。 しばらく二人とも何も言わなかった。 ただ、緩やかに流れる白い雲が時間の流れを教えてくれていた。 時折ブラウニー牧場の動物たちが鳴く声が聞こえてくる以外、とても静かな一時だった。 沈黙を破ったのはアカリの方だった。 それもひどく震える声で、彼女は言葉を紡いだ。 「・・・・ほんとは散歩なんて嘘。休憩なんて嘘。お祝いの品届けにきたの。」 彼女は精いっぱい明るく言おうとしていた。けれど空気に震えながら僕の耳に届いた言葉たちは、 どれもみなひどく寂しそうに、響いていた。 「・・・・リーナさんとタオさんに?」 「なんだか、意地を張ったのが馬鹿みたいだった。」 投げやりな調子でそういうと、アカリは首をもたげた。 蜂蜜がかかったバターパンは彼女の手の中で小さく震えていた。 僕は、もう一度ハンナさんの姿を思い浮かべた。 ぷくぷくとした彼女の手が大切そうに持っていた白い箱。 中には自信作のケーキ。 真っ白な生クリームは、リーナさんのウェディングドレスをイメージして作ったものだった。 中央には青い鳥の羽をかたどったマジパン。 タオさんがリーナさんに渡したときのことを二人に思い出してもらおうと思ってこしらえたもの。 ケーキがどんなものか、僕は全部思い描くことができる。それを作ったのは、僕なのだから。 そんな僕が、アカリになんといえばいい? 慰めの言葉なんていくらでも出てくるけれど、その言葉のどれもが、 今のアカリを慰める言葉には、当てはまらない気がした。 アカリが、顔をあげた。 やっぱり泣いてる。ぐちゃぐちゃになってしまった顔の端から、涙がぽたりとバターパンの上に落ちた。 その様子が、僕にはひどく美しく思えた。 やっぱりアカリはアカリだ。 他の誰を好きでいようと、僕の隣にいるのに、僕以外の人のことを考えていようと、 アカリはアカリなのだ。 そんな彼女を、僕は好きになったのだ。 「・・・・ねえ知ってた?蜂蜜に涙を一滴かけたら最高の味になるって。」 「どうして?」 「甘いのにしょっぱい味を加えるとさらにおいしくなるからなんだ。」 「そうなんだ・・。うん、知らなかった。」 「そうだろうね。今僕が考えたから。」 「なにそれ。」 「でも、おいしいだろ?」 くすりとアカリが小さく笑った。 「うん、おいしい。」 それだけで、僕はひどく救われた気持ちになった。 彼女の潤んだ瞳から、もう新しい雫が生まれないことを確認してから、僕は口を開いた。 「・・・ねえ、もうひとつ。アカリが知らないこと、教えてあげようか?」 「なあに。」 僕は、アカリの片方の手を軽く握った。 驚いた顔をして、アカリが僕の方を見た。 口元にバターパンのかすがくっついている。僕は笑いながら、彼女の口元を手で拭ってやった。 彼女の頬がうっすらと赤くなった気がしたけれど、それは僕の都合のいい勘違いかもしれない。 彼女のまだ潤んでいる瞳がまっすぐ僕の方を見ている。 大地を思い浮かばせるその瞳に、何度吸い込まれそうになったか分からない。 キラキラと光る彼女の瞳の中に、今は僕だけが映っているのかと思うと、トクトクと心臓の音が早く鳴りはじめた。 僕は次に言う言葉を慎重に考えながら、口を開いた。 彼女の瞳はまだ僕を見つめていた。 もうそれだけで、充分な気がした。 |