「あったかココア」 チハヤ*アカリ






ああ、女神さま。

これは、何かのイジメでしょうか?





梅雨も明け、じめじめした空気にさらにジリジリとした熱い日差しが加わった今日このごろ。

流れる汗を拭いながら草むしりを終え、しばしの休憩と家に戻った私の目の前に、

チハヤはあのとびきりなスマイルを顔に張りつけて、コトリという音とともにテーブルに置いたのは、

湯気をもくもくと生み出している、いかにも熱そうなココアを淹れたカップだった。


そのカップを見た瞬間、額に浮かんでいた汗がつうーと流れた。

その湯気が、私の身体の水分も一緒に吸収して、空気に帰化させているように思えた。



「・・・・チ、ハヤ?」

私は小首をかしげ、おずおずとチハヤの名前を呼んだ。



「お仕事お疲れ様。」


にっこりと、憎らしいほど綺麗に口角を上げてチハヤは笑った。

ちょっと見とれてしまいそうになるけれど、額に浮かぶ汗が私の思考を現実に引き戻した。


「どう、したの?」


明らかにおかしな空気を含む私とチハヤの間で、

勇気を振り絞って吐き出した私の言葉たちは、あまりにも滑稽な声とともに震えながら、チハヤの耳に飛び込んでい
った。

空気が、しんとなる。

チハヤの表情が読み取れなくて、私の汗も止まらず噴き出している。

どうしたらいいのかわからなくて、私はほとほと困ってしまった。


私の気持ちを少しは汲み取ってくれたのか、沈黙を破って話始めたのはチハヤだった。




「四日前の14時過ぎ。」


「・・え?」


「なにしていたか、覚えている?」


「え・・ちょっと待って。・・・仕事してたと・・。」






「君に今すぐ、このココアをぶちまけたいくらいだよ。」



鋭い声が私の耳を切り裂くように飛んできた。

すぱすぱと空気を切り刻んで、チハヤはその言葉を吐いたのだろう。

けれど彼の表情は、美しいといえるほどきれいに微笑んでいる。



「え・・・・。」


さっきまで額に浮かんでいた汗は、しゅわりと空気の中に消えていってしまったのか、一滴も流れなくなった。

脳細胞が固まる。

4日前になにをしていたのかなんて、ひとつも思い出せなくなる。


困り果てて、眉をひそめてチハヤを見た。

彼と、目を合わせることを怖いと思ったのは初めてだった。


こんなチハヤ初めて見た。

こんな彼の姿を私は見たことがない。今ままでのチハヤはどこにいってしまったのだろうか。


狂気にも似たなにかが、足音を立てながら近づいてきている。

チハヤの狂気の引き金を引いたのは、四日前の私の行動なのだろうけれど、

残念ながら、恐怖で凝り固まった私の脳細胞たちは何一つ、記憶のかけらさえ見つけだすことができないでいた。


チハヤが私に近づいてくる。


目のはしに映るココアのカップには、もくもくと白いもやが立ち上り、空気を濁す。

そのもやを見て、私の額の汗が再びうっすらと浮かび始めた。


チハヤが私のすぐそばにまで来た。


顔を覗き込まれる。目をそむけれなくなる。とらわれる。

紫色を含んだ彼の瞳の奥にいる私の表情は、もやがかかって見えなかった。



「ねえ、アカリ。本当にわからないのかい?」


一言ひとこと、ゆっくりとチハヤは言葉を吐き出した。

彼の言葉が私の耳を通って、頭の中に染み込んでいっても、私の脳細胞たちはぴくりとも動かない。


いつのまにか、彼の手には湯気を上げたココアのカップが握られていた。

カップが私に向かって、ふふんと笑っているように見えた。




彼の言葉に、首を縦に振れば、私は熱い湯気をあげるココアとキスをすることになるのだろうか。

熱湯と変わらない温度を帯びたココアは、きっと私の皮膚に悲鳴をあげさせるだろう。

どろどろと溶けたのは、私の皮膚なのか、それともチハヤの心臓か。





チハヤが、もう一度にっこりとほほ笑んだ。



この笑顔の奥に潜む狂気に、私が出会う時はすぐそこまで。












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