ああ、やっと会えた。



そう想った気持ちは取りあえず心に留めたまま、昭は許嫁である元姫の姿をじっと見つめた。

離れた場所でお互い過ごしていた日々の中で、

夢の中にときたま現われる元姫の姿はおぼろげで、紗がかかったかのようで。

その夢を見るたびに、より元姫が遠くに感じられて仕方がなかった。

けれど今、目の前で視線を交えているのは、夢でもなんでもない、現の中にいる許嫁の姿だ。

その姿を確かめるように、昭はじっと元姫の瞳の奥の色を眺めていた。



久しぶりに訪れた元姫の部屋は、最後に見た様子と得に変わった様子はなく、

含む空気の色は穏やかで、自分の部屋とはまた違う安心感を与えてくれる。


此度は洛陽の警備だったが、

こんな風に離れて過ごすことは初めてではなかったし、これからも幾度とあることだろう。

けれど、元姫と過ごした日々が増すごとに、彼女と視線を交えないことに、

心のどこかがささくれたような、錆びついたような気持ちになった。


だからこそ、元姫の顔をいま目の前で確かめていると、じんわりと心の中がやわらいでくる。

ふっと、口元が緩む。

肩の力が抜けたというか(いつもそんなに張っているわけではないが)

元姫の前だと何も考えることなく、ただ楽な気持ちで同じ空気を共有することができる。


どうしてそんなに顔ばかり見てくるのかと言わんばかりに、元姫が少し小首を傾げた。

彼女の金糸の色を含んだ髪の毛が、その所作に合わせてゆらりと揺れたのとほぼ同じくらいに、

昭は少し口角を上げながら、口を開いた。



「元姫。」


初めに、音を持って口からすべり落ちた声は、やはりというべきか彼女の名前だった。

その名前を呼ぶと、返事をするかのように、元姫は一度瞬きをした。

彼女の大きな瞳の色が一瞬、瞼と長い睫毛に覆いかぶされる。

その瞬間の睫毛の長さとか、瞼の白さに、ああやっぱり目の前にいるのは、現の元姫だとそう思う。


ついっと、少し前かがみになって、彼女の顔を覗き込んだ。

ちょうどすぐ目の前に、ぱちりと開かれた瞳の透明さを確かめることができる。

ぐいっと引き寄せて、その瞳を飲み込むくらい近くに、覗き込みたくなる。

でも、顔を合わせたばかりの今はまだ早い。

時間はまだまだあるんだ。共にいる空間をゆっくりと楽しもうと思った。



そして、すっとこちらに投げかけてくる、元姫のまっすぐな視線を真正面で受けると、

つい、からかいたくなる衝動を起こしてしまう。

その瞳の奥が、どのように揺らぐか、彼女の顔にどんな色が浮かぶか、見てみたくなってしまう。





「俺がいないのが、寂しかったんだろ?」


にっと、口角が上がるのを止めることが出来ないまま、昭はそう元姫に聞いた。

透明な水のような瞳の中の薄い膜が、波を打ったように揺らいだように見えた。



「そんなことはない。」


口早に、元姫はそう言った。ふいっと、視線をずらされる。

飲み込まれそうな瞳の色を確かめられなくなり、ただ耳の中にそっけない元姫の声が残る。

そんないつもと変わらない冷たい音を見せるやり取りに、また笑い出してしまいそうになる。


ああ、やっぱり元姫だ。

こんなやり取りを続けたくて、つい言葉が口から洩れる。




「元姫は嘘つきだなあ。ま、俺にはお見通しだけど。」


「嘘なんか・・。」


「俺さあ。口が軽い兵士たちから噂、聞いちゃったんだよなー。」


なんのこと?と言うように、元姫は片方の眉をちょいっと上げた。小さな耳が、ぴくりと動く。


にやにやと口が緩むのが、止められなかった。

兵士の口の葉に自分たちの話題が上ることがしばしばあったが、

自分の耳に直接入ってきた話は、普段本人の口から直接聞けるものでなかったからだ。




「元姫の独り言、耳に拾ってるやつがいたんだけどー。そいつが、俺がいないと元姫は、」


最後まで、言わせてはもらえなかった。

口から言葉を吐き出すよりも先に、ひゅっひゅっと鋭い音を立てて飛んできたものから、

とっさに身体をよけることしかできなかった。

身体の横を通り過ぎて、かんかんと壁にぶつかって床に転がる。



「子上殿の馬鹿!」


一瞬、殺気をも包むように小さな肩を怒らせて、そう叫ばれた。

普段は白さを見せる耳や頬が、赤く染まり、睨みつけられる瞳の力強さには迫力が増している。



「ちょ、元姫。それ調練用の・・なんで今、持ってんだよ。」


調練用なので、先は木で作られていて、当たっても死ぬことはないが

それでもよけた後ろで壁に当たった時の音は、ちょっとの痛みでは終わりそうになかった。

しかも、この近距離である。



「馬鹿!腑抜け!私じゃなくて、そんなところから聞いてくるなんて!」


怒気を含んだ声を飛ばされる。

もう一度投げられたが、先ほどの不意打ちで後ろに下がっていたので、かすることなくよけることができた。


また投げられてはたまらないので、よけてからすぐ元姫に近づいて手をふさいだ。

ぐっと近づいた距離に、元姫は昭の手をほどこうとしたが、かなうはずがなく、距離は変わらなかった。


じゃあ、俺に直接言ってくれるんだろうか。

ちょっとそう思ったけれど、とてもいまの状況で、

元姫の口からなにか甘い言葉が出てくるとは思えないので、黙っていた。

でもまだ、耳のあたりが赤い元姫の表情を見て、昭は懸命に口の端が上がりそうになるのをおさえた。



「もう、知らないわ。」


ふいっと横を向かれる。

赤い右の耳だけが、こちらを向く形になる。



「悪かったよ。」


すまなそうに声を出した。

唇に力を込めてしまわないと、声がこぼれて笑ってしまいそうだった。



「部屋にも、もう来ないで。」

ぴしゃりと言葉か返ってくる。


「それはないだろー、元姫。」


ぐっと、手首を掴んでいた手に力を少し込めた。

細いけれど鍛錬を重ねた元姫の手は、そこらの女性に比べたら硬い。力もあるはずだろう。

けれど昭にとってはやはり、柔らかく小さい、壊れそうだと思う手だった。


元姫が横を向く限り視線が交わることはないけれど、こちらを向かないかとぐっと顔を近づけた。

すぐ目の前に、彼女の透き通る肌の白さを感じることができる。




「な?元姫。」


「・・・・・・・・・・・・・。」


そっと、空気を吐き出すように、言葉を紡いだ。

彼女の、横を向いて伏せている睫毛が、きれいだと思った。





ちょっとこちらを見た元姫が、(きっと、昭の間近からの視線に耐えられなくなったのだろう)

じとりとした瞳を向け、口を開いた。




「なに笑っているのよ。」



我慢していたつもりだったが、やっぱり嬉しさが込み上げてくるのを我慢できなくて、

目が緩んでいるのを気付かれて、元姫の肩がちょっとまた上がった。


怒っているような空気を含んでいたけれど、

その耳の頭はまだ赤く、怒りよりも恥ずかしさの方が彼女の中では勝っているようだった。




「や、だって。お前が、可愛いからさあ。」


朱色を含むその耳の先をもう一度視線の中に入れながら、たまらずに昭はそう言った。



「子上殿・・・私は怒っているのよ。」


眉をきゅっとひそめた表情を向け、元姫はそう言った。

怒りを抑えたような言い方だったが、気にせずに唇から歯を見せてはは、と笑った。



「それが、可愛いんだよ。」


「子上殿の・・・腑抜け。」


ぽとりと、落とされた言葉に先ほどのような勢いはなくなっていた。


昭の笑い顔を見て、怒ってもしょうがないと思ったのかもしれない。

あるいは、やはり恥ずかしさの方が勝っているのかもしれない。




「ああ、べつにいいぜ。その腑抜けに、元姫はこれからも一緒にいてくれるんだろ?」


「・・・・・・知らないわ。」



小さくなった声の中に、怒りと一緒に恥ずかしさや照れ隠しが入っていることを、昭はしっかりと分かっていた。

積み重ねてきた日々は、もうずいぶんと長い。

いくら元姫が隠そうとしても、その表情ひとつの微妙な変化を掬い上げることができる。



掴んだ手は、ひんやりとしていて気持ちよかった。

元姫の肌はいつも涼しさを含んでいる。

そう言ったら、あなたが熱い過ぎるから、と言われたことがあった。





「元姫。」


名前を呼ぶ。視線がもう一度交わる。これからも、何度も交えることになるだろう。

けれどその一瞬一瞬で少しずつ変化するその色や、表情をひとつも逃したくないと思った。


元姫の顔の横で握っていた両の手をゆっくりと下す。

元姫がちょっと身じろく。


ぱっと、力を込めて手を振りほどかれるかと思ったけれど、

元姫の手は、すっぽりと昭の手の中に収められたままだった。



「会いたかった。」


腹から言葉を吐き出した。ずっと、思っていたことだ。

やっと元姫自身の、その赤く染まっていた耳に、届けることができる。

まだ、眉をひそめていたけれど、一瞬逸れた視線はもう一度こちらを向いた。

瞳が揺れる。透明な膜が震える。かすかに唇が動く。

私も、と言いたかったのかもしれない。この状況じゃ絶対に音にならない言葉だろうけれど、

ささいな変化を見せる元姫の表情をじっと見ていれば、気持ちを汲み取ることはできた。




「な、もういいだろ?」


首をかしげてそう言った。明るく、なんでもないという風に声を作った。

冷たい彼女の手をきゅっと握りなおす。

元姫は、どうしようかとちょっと迷ったように視線を泳がしたが、かすかに頷いた。


その表情が可愛くて、抱きしめようかと思ったけれど、元姫の口が開いたので、ちょっと先延ばしすることにした。



「ねえ。さっき部屋の前に、誰かいたような気がしたのだけれど。」


視線を、部屋の向こう側に寄せる。

きっと、兵士か侍女か通りかかったのだろう。

また彼らの噂話の種を撒いてしまったのではないかと、元姫は視線をそちらに向けたままだった。

その視線がこちらになかなか戻ってこないので、昭はこつんと横をむく元姫の額の端に自分の額を寄せた。

柔らかな髪が、肌にかすめた。




「かまうもんか。聞かせてやれよ。」


昭の言葉に、もう、と溜息に近い声を漏らしたが、元姫のそのあとの言葉が続くことはなかった。

顔を上げて、にっと微笑む。今日は、元姫と過ごす時間をたっぷりと楽しまなくちゃ、な。


まだ、どこか気恥ずかしさを見せる彼女の表情を拾い上げて、

瞳の奥にきちんと記憶してしまいこんでおかないといけないと思った。

こんな元姫、なかなか見れるもんじゃない。



俺がいないと・・・なんだろ?

と口から言葉がこぼれてきそうになったが、もう一度からかいでもしたら、

今度は部屋から追い出されそうだったので、その言葉は喉の奥にしまい込んだ。


元姫の口から直接聞かなくたって、元姫のその表情をひとつひとつ拾い上げたら、

彼女の気持ちはだいだいわかってる。たまに、その口から聞きたいとは思うけれど。



じんわりと自分の熱がうつって、熱くなってきた元姫の両の手の熱を感じながら、

昭は元姫の手を握りしめる力を、きゅっともう一度強めた。








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爪龍さん

リクエスト「晋ストーリーを掘り下げた話」を書かせていただきました。
「俺がいないと寂しいだろ?」〜「子上殿がいないと私・・・」
という言葉の後を想定して、今回書かせていただきました。
ちょっと時間軸とか無視してしまったのですが、
(洛陽の警備後、元姫のセリフが許昌にとどまった後のセリフですので・・・^^;)
そこは書きやすいように、あえて時間の流れを考えずに書かせていただきました。
爪龍さんが思われていたような、ストーリーの掘り下げ方ではないかもしれませんが;;
読んでいただけたら嬉しいかぎりです。
最後に、リクエストしていただいて、ありがとうございました!楽しく書かせていただきました。