眩しいと感じるほどの光を輝かせながら、日が沈んでいく。 夏を迎えた空はまだ明るく、星が顔を見せるにはまだ早すぎる。 けれど、昼の暑く重たい空気は地面に沁み込み、いくらか涼しい風が吹いている。 空の端が、黒を多く含んだ群青色に彩られ始める じわりじわりと浸食するかのように、空がゆるりと夜を迎えようとしていた。 そんな空の変化を自室の窓からふっと見ていると、ふいに足音と衣の裾がこすれる音が聞こえた。 少し大股に歩いて作られるその足音の主が声をかけてくる前に、ふっとその方を向いた。 まるで、自分の自室のように軽い足取りで現れたのは、許婚でありお目付け役として目をかけている子上殿だった。 「よお、元姫。」 明るい声で、子上殿は名を呼んでくる。 低いけれど通る声が、空気にふっと溶けて、こちらに流れてくる。 耳に馴染むその声をとらえたあと、うん?と疑問に思い、先ほどまで見ていた空の色をふっと頭に描いた。 「子上殿。たしか、今はまだ鍛錬の時間ではなかったかしら?」 「細かいことは気にするなよ。」 「気にするわよ。」 じとりとした目を子上殿に向けた。 記憶が正しければ、あと四半刻はあったはずだ。 けれど今、目の前にいるこの許婚は、汗をかいた様子すらない。 いつもの行動から照らし合わすと、鍛錬が終わる半刻前に抜け出して、 汗を拭き取り、服を着替えて、この場に足を向けたのだろう。 「子上殿。もう少し真面目になれないものなのかしら。」 「まあ、いいだろ。次は最後まで出るって。」 お目付け役に自分の行動がばれたというのに、ちっとも反省した色を見せず、明るい声のまま子上殿はそう言った。 そんな許婚に、思わず溜息をついてしまう。 よく、子上殿のお目付け役は大変だろうと、声をかけていただくことがあるのだけれど、 こういったときにたしかに、情けないやら腹立たしいやら、 一体どうすれば少しはやる気になるのだろうかと思案に暮れてしまうこともある。 けれどこの役目が、苦に感じる程に大変だと思うことは、それほどになかった。 面倒だとばかり、言葉を繰り返す子上殿に対して、溜息を空気に吐き出す回数が少ないとは言えないけれど、 そんな日々に飽きれながらも、だんだんに慣れてきている自分がいた。 ときたまに、すっと話す言葉や行動が、ただの怠け者で終わらせない、 きっとこの先なにかを成し遂げる時がくるだろうと、そう思うことがあることもまた、確かだった。 「なあ、元姫。」 そんなことを考えていると、ふいにもう一度名を呼ばれ、すっと、手をとられる。 子上殿は手を取った方とは反対側の手から、なにかをぽとりと手の平に落とした。 拳の中から落とされたものを目にとらえると、それは白いたんぽぽの花だった。 中心だけ本来の黄色を含むそれは、夏に向かう季節とは少し外れた存在だった。 まるで、春とは違う力強い太陽を浴びて、その光の色を身体に染めてしまったかのような白さだった。 「これ、元姫の髪みたいだと思って。」 子上殿はそう言って、耳の前に垂れている髪にちょいっと触れてきた。 「私の髪?」 少し前に持ち上げられて、くるくると指に絡めて弄ばれている髪の毛が、 手のひらにうずくまっているたんぽぽと一緒に、視界の隅に映った。 「外でさ、光ってるように見えたんだ。元姫の髪さ、こう日に当たると光るだろ?」 白い歯をちらりと見せながらそう言われると、なんと言って返したらいいのか分からなくなってしまった。 ただ、視界の隅に映る自分の髪の色が、たんぽぽの白さに溶け込むさまを子上殿が想像してくれたことに、 少し不思議な感覚を持ちながらも、やはりなんとなく嬉しかった。 左の手のひらで、おとなしくしているたんぽぽのその一つ一つの花弁が寄り添う姿の可愛らしさを、 ちょっと目を細くして眺めていると、いつの間にか髪に指を絡ませることを止めた子上殿の手が、 もう一つの手をとっていた。 「なに?」 少し首を傾げて尋ねると、子上殿は目の前で、口角を少し上げてにっと笑った。 と、とたんにぐいっと緩く手をひっぱられる。右手が、子上殿の唇に吸い寄せられる。 右の手の甲、中指の関節の少し下に、唇があたる。あ、と思った瞬間、ぐっと軽く皮膚がひっぱられた。 一瞬にも見えた子上殿の唇の動きは、手の甲から離れる瞬間、これみよがしにちゅっと音を立てて離れていった。 子上殿の顔を、ぱちりと一度瞬きをして見つめた。にっと、もう一度彼の口角が上がった。 「花」 「花?」 子上殿の言葉につられるように、先ほど唇を寄せられた手の甲に視線を移す。 中指の関節の少し下に、肌の色とは反した、赤く少し楕円に歪んだ痕がつけられていた。 まるでそれは、夏に咲いてしまった白いたんぽぽのように、皮膚の上でぽっと色をつけていた。 「…すぐに消えるかしら。」 「おい元姫。それはないだろ。」 ぽつりと、手の痕に向けてこぼした言の葉を拾い上げて、子上殿は不満そうな声を漏らした。 「だって、消えないと困るじゃない。」 「消えないさ。」 「いいえ。」 きゅっ、と緩く痕をつけられた手の指先を握られる。 重ねられた指が、はっとするほど熱く、指の先が溶けるのではないかと、ちょっと思った。 左の手の平の上でその様子を見守っている白いたんぽぽを、指の先に転がしてつまむと、 不満そうに眉をひそめている子上殿の頭の、ちょうど耳の少し上にひっかけるようにそっと置いた。 大地の色を思わせる明るい茶色を含んだ子上殿の髪の毛に、ぱっと白いたんぽぽの色が映えた。 「なんだ?」 「以外に、似合うものね。」 夏場に咲いてしまった白いたんぽぽのように、手の甲につけられた赤い痕のように、 子上殿の髪の上でゆれるたんぽぽは異質で、けれど可愛らしく、その生を咲かせていた。 目をちょっと見開いて、くるりと瞳を上を向いた子上殿のその幼く見える表情に、 白いたんぽぽは思っていたよりも似合っていた。 「消えないんだ。」 白いたんぽぽが頭のどこに咲いているか、すぐに探すことを諦めた子上殿は、 もう一度先ほどの言葉をぽとりと落とすように呟いた。けれど強く、その言葉は耳に届いた。 「なぜ、そう言うの?」 尋ねると、すっと瞳を見つめられた。 先ほどからずっと、緩く指先を握っていた熱い指の力が、きゅっと強くなる。 「俺がまた咲かせるから。」 な?と小首を傾げながら、確かめるように言葉を続ける。 確信を含んでいるその声に、ちょっとだけ眉をひそめる。 「…手はやめて。」 「じゃあ、見えないところならいいんだ?」 「馬鹿。」 すかさず返した言葉を聞いて、おかしそうに、笑い声を唇の間からこぼす。 そんな子上殿の笑顔を見ていると、ひそめていた眉の力が緩くなってくる。 軽い笑い声を立てている子上殿の耳の近くには、白いたんぽぽが相変わらず咲いていて、 子上殿が笑う度にちらちらと揺れている。ああ、かなわない。とちょっと思った。 笑っていた子上殿の手が、右の手にも伸びる。 ぐいっとひっぱられて、あっという間に距離を縮められる。互いの衣服が、触れるか触れないかの距離。 目がつっと、合う。 口角を上げて、子上殿はもう一度言葉を紡ごうと唇をゆるく開けた。 その唇が紡いだ後に、次に縮められる距離のことを考えて、ひゅっと胸が熱くなった。 「元姫。」 名前を呼ばれる。その声ひとつで、とらわれる。 ゆっくりと、先ほど名前を紡いでいた子上殿の唇が近づいてくる。 熱くなる胸がどうにかおさまらないかと思いながら、ふっと瞳に瞼をかぶせた。 耳の奥で、名前を含んだ三文字の子上殿の声が溶けた瞬間、すっと心に沁みる。 繰り返しこだまして、ぽとりと波紋のように広がっていくさまが、瞼の裏で見えた気がした。 |