アカリは、少し酔っぱらっていた。

それほど強くないというのに、二人で乾杯したグラスには、

アカリにとって少々強いアルコールが入っていた。

彼女の細い喉を通って、アルコールはアカリの頬を赤くほてらしていた。



上機嫌となっていたアカリは、突然椅子から立ち上がると、ベッドの脇に足を向けた。

ベッドの傍にある小さな棚の中から、両手で軽く持つほどの大きさの小箱を、

やはり少し赤くなっている手でひっぱりだして、机の上に置いた。

コトンという音が、空気に響いた。

僕はその音を聞いて、つい先ほど二人で開けたワインを注いだグラスをチンと鳴らした音を思い出した。



「見て、チハヤ。」



アカリは、古ぼけた小箱の中をそっと開けた。恭しく、そして慎重に。

まるで宝箱が入っているかのように、彼女の瞳はきらきらと光り、そして口は緩く微笑んでいた。

けれど、そんな彼女の表情とは裏腹に、箱の中には何も入っていなかった。


強いていうならば、端が剥げている箱にプリントされた星のマークが目につくくらいで、

後はきっと酸素と二酸化炭素、ほこりが混じった空気がおさめられていたぐらいだった。

けれどもアカリは、満足そうな表情を崩さずに、その唇を開いた。




「ここにはね、幸せがつまっているの。」


アカリの言葉に、ぼくは思いきり眉をひそめた。

からっぽの箱を見せられた上に、変なことを言い出した彼女をどうすればいいのかわからなかった。

これは早く水を飲ませて、ベッドに寝させるべきなのかもしれない。



「お酒の飲みすぎだよ、アカリ。」


僕はどんな表情を浮かべればいいのかわからないまま、彼女をたしなめるようにそう言った。

けれど彼女はそんなことないわと言いたげに、首を振った。



「いいえ、違うの。今日あった幸せなことをね、寝る前にこの箱の中にしまっているの。忘れてしまわないようにね。」


「馬鹿みたいだ。」


僕はばっさりとした言い方で言葉を吐き出した。

その言葉は鋭く、アカリの耳に届いたに違いない。


僕には、アカリがなにを伝えたいのかよくわからなかった。

鋭い僕の言葉を跳ね返すかのように、アカリはもう一度横に振った。




「馬鹿じゃないわ。私はね、チハヤに知ってもらいたいだけ。」


まるで幼子をたしなめるかのように、アカリの言葉は優しかった。


「どうして私がこの箱をチハヤに見せたかわかる?」


アカリは開けられた箱を持ったまま、そう問うてきた。

黄ばんだ箱の中には、彼女が毎夜紡ぐ幸せな出来事を示す言葉たちが入っている。

目には見えないけれど、彼女には毎夜紡がれた言葉たちが集まって、

幸せな色を彩っているようにでも見えているのだろうか。



「僕にはわからないよ。」


「分からないふりをしているだけだわ。」



柔らかく彼女はそういった。



「ねえ、チハヤ。あなたにはかさぶたを作るきっかけが必要だと思うの。」


「なにの・・・。」


「私がかさぶたになってあげる。」



小さく笑ったアカリの顔が目の前にきた。

ふっと、唇が重なる。アカリの唇からワインのにおいがかすかにした。




「それは、ただのキスっていうんだよ。」


「違うの。これはね、かさぶたを作る魔法なのよ。」



僕は彼女の頬に手をおいた。

熱いくらいに感じる彼女の頬は、なめらかで柔らかかった。



「本当に、お酒の飲みすぎだよ。」


「ええ、そうかもしれない。」


「待ってて、今、水を渡すよ。」


僕は立ち上がると、キッチンに向かおうと足を向けた。




「ねえチハヤ。」


「うん?」

キッチンの流し台の蛇口をひねる。

冷たい水が勢いよく流れ、コップの中をあっという間に満たした。



「でもね、私は、あなたに幸せな感情を抱いてほしいの。ふりじゃなくてね。」



つきんと、心に突き刺さる。彼女の言葉は柔らかいナイフのようだった。

たとえ酔っていても、いえ酔っているからこそ、

アカリが僕に対して思っていた感情がむき出しになっているのだろう。

そして彼女は僕が思っていたよりも、鋭くかしこい。




「大丈夫だよ。」



アカリの方に向き直って僕はそう言った。

まるで、嘘をついているような感覚になった。

いや、自分に対して確かめているような気分・・という方が正しいのかもしれない。

アカリにコップを渡す。彼女はありがとうと礼を言って、こくりとその水を飲んだ。


彼女の喉の向こうで流れていく水のように、僕はいつか素直に彼女に気持ちを伝えれるときがくるのだろうか。

アカリが僕を見つめる。まだ頬は赤いけれど、

箱の中身をうっとりとした視線で見ていたような熱は、瞳から消えていて、ただまっすぐ、僕を見つめていた。




「いつかきっと、チハヤの幸せのかけらもここに詰めてあげるね。」



ああ、そうか。やっぱりアカリにはなにもかもお見通しなんだね。

なんともいえない気持ちになった。いや、今にも泣きだしたい気持ちになった。

どんな表情を作ったらいいのかわからなくて、僕は泣き出しそうな笑い出しそうな、

そんな変な表情を浮かべながら、アカリにその表情が見えないように、こくりとうなずいた。







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