私が、このはな村から、ブルーベル村に引っ越しをしてから、半年が過ぎ去ろうとしていた。 春の優しい風も、真夏のギラギラとした日差しも、すっかり秋の柔らかな光に変化し始め、 ようやく動物たちも少しずつ増え、生活に慣れ始めたところだった。 もともと、このはな村での畑中心の牧場仕事が長かったせいもあり、 トンネル開通を機にブルーベル村に引っ越ししてからの、 畜産中心の仕事には慣れないことばかりで、失敗もたくさんした。 けれど、このはな村に残している畑の収穫物の利益と、溜めていた貯金のおかげで、 この半年、なんとか仕事を軌道に乗せることができた・・というところなのだ。 今日も朝から慌ただしく、動物たちの世話に駆けずりまわり、 やっと今、最後の牛のブラッシングを終えたところだった。 気持ちよさそうに首を振り、のそのそと動き出した牛の背中をぽんぽんと叩き、 後片付けを追えて、私は動物小屋から出た。 小屋から出たときの太陽の位置が、身体の中で刻まれていた時間とはだいぶ異なり、 もう真ん中を、いくらか過ぎている場所にあった。 気が付いたら、昼過ぎになっていたのだ。 太陽の日を全身に浴びると同時に、きゅるるとお腹が悲鳴を上げた。 考えてみたら、忙しさにかまかけて、今日は朝食さえ食べていなかったのだ。 「チセ。」 ぽんと名前を、呼ばれる。 聞こえるとは思ってなかった声が耳に届いて、私はびっくりしてその方を向いた。 ブルーベル村の住人ではない、恋人のキリクがそこに立っていた。 「キリク…。驚いたわ。」 私はぱちぱちと瞬きをして、そっと声を出した。 「はは、だろ?びっくりさせようと思って。」 「もう。」 白い歯を見せながら笑うキリクに、私はちょっと肩をすくめた。 「それで、どうしたの?」 「なんだよ、恋人が久しぶりに会いにきたのに。」 「びっくりさせようと、思ったんでしょ?」 「ご飯に誘いにきたんだよ。」 すっと、キリクの手が伸びてくる。私は、ぱちりと瞬きをした。 もう一度、瞼を持ち上げたとき、キリクの指の先が、一本の藁をつまんでいた。 「ついてるぞ。」 にかりと笑われる。 キリクの指の先の藁をちょっと見たあと、 彼の指が私の髪をかすめたことに、キリクがはっとなるほど明るく笑ったことに、 なぜか、きゅっと頬が熱くなるほど、恥ずかしくなった。 きっと、彼に久しぶりに会うからだ。と、心の中で、言い聞かせた。 「行こうぜ。まだご飯食べてないだろ?」 「…うん。」 恥ずかしさをまだ引きずっていて、 私はぼそぼそとした声で、頷くことが精一杯だった。 このはな村にいた時は、ここまで過剰反応じゃなかったのに。 引っ越しをして、忙しさや離れた距離のせいで、会う回数がぐっと減り、 キリクへの恋しさが、知らず知らずに、胸の中に溜まっていってしまったのだ。 並んで歩くことも、考えてみれば久しぶりで。 この前は一体いつだったかと考えながら、私は歩を重ねた。 ぼうっとしながら歩いていたせいか、歩幅の違うキリクが斜め前を行くことになる。 そうすると、すっと彼は歩を緩めて、私のペースに合わせてくれる。 例えばそういったところで、はっとなって、それからたまらなく嬉しくなる。 小さな嬉しさが積み重なって、そして私はその積み重なりで、 キリクのことを好きになったのだと、思い出すことができる。 欲深い私は、本当はキリクと手も繋ぎたかったのだけれど、 これ以上、胸がきゅっとなることを重ねると、 風船みたいに、ぱんと割れてしまいそうで。タコみたいに頬が赤くなりそうで。 手をつなごうよ。という言葉は、舌の裏に隠したまま、 私たちは、プティ・ハワードに入った。 積もる話を、本を開くみたいにひとつひとつ、話していった。 キリクも仕事の話だったり、ハヤテのことだったりと、ぽんぽんと出てきて、話題は尽きなかった。 「あらあら、本当に仲がいいわねん。」 ハワードさんが目細めながら、そう言い、注文していた料理を持って来てくれた。 私は、嬉しいような恥ずかしいような気持ちになった。 「おいしそうだな。」 キリクは、カレーライスとオニオンサラダを見ながらそう言った。 私の前には、温かな湯気と共に、おいしそうなガスパチョとオムレツのお皿が置かれた。 キリクの笑顔と一緒に料理を見ると、より一層おいしそうに見えた。 「そういえば、リアちゃんは?」 いつもなら彼女が、できたての料理を運んできてくれるのだ。 ふっと、そう思い、私はハワードさんに聞いた。 「ふふ、客引き中よ。」 くすくすとハワードさんは笑いながらそう言うと、 可愛らしく歩きながら、厨房の方へと戻っていった。 「なあ、チセ。食べようぜ。」 もう待ちきれないという風に、キリクは話しかけてきた。 気付けば彼はもう、スプーンを手に持っている。 キリクの声に引かれるように、私も料理の方に、目を戻した。 「そうだね。いただきます。」 私はすっと、手を合わせて、スプーンを手に取った。 キリクは、私よりもちょっと早く、もうカレーライスを口に運んでいた。 「ただいま。」 そう言って、リアちゃんが戻ってきたのは、 目の前の料理が、半分ほどお腹の中に入ってしまった頃だった。 キリクなんて、もうほとんど平らげてしまっている。 どうやら、客引きに成功したらしく、リアちゃんの後ろにはラズベリーちゃんがいた。 扉が閉まるときの風のせいか、 ラズベリーちゃんの赤茶色のウェーブした髪が、ふわりと舞うように揺れた。 「おかえりなさい〜。あら、ラズベリーちゃん、いらっしゃい。」 お皿を拭きながら、ハワードさんはそう言った。 「ハワードさん、こんにちは。あっ!チセちゃんとキリクやんか!」 くるりと、ラズベリーちゃんがこちらを向く。 もう一度、彼女のきれいな長い髪が、ふわふわと宙の上で踊る。 彼女のターンの鮮やかさや、踊る髪の一本一本が、まるでバレリーナのようだと、私はぼうっと思った。 そんな頭の中ではっきりと、 彼女が、キリクのことを呼び捨てにしている声も、私の耳はあざとく、拾っていた。 「よぉ。なんだよ、お前。昼食か?」 キリクは、なんでもないように軽く声をかけた。 その気軽さだったり、そういえば彼も彼女の名前を呼び捨てにしていたことだったり。 私の胸の中で、もやもやと煙のようなものが、じわじわと楽しい午後の昼食のひと時を、覆い始めた。 「ご飯はもう食べたんやけど、リアに誘われてな。 てか、なんであんたがこんなとこおるんや?」 「見てわかんないか?」 「のろけは、いーって。あ、ハワードさん。私、モンブランね。」 「げ…。お前、わざとか?」 「あほか。あんたにかまってられへんのんよ。じゃあね、チセちゃん。」 にこっと笑って、ラズベリーちゃんは手を振った。 その所作だったり、彼女の笑顔が、 びっくりするくらい可愛くて、私の中でもやもやとした煙が、晴れないままだった。 逆に一層、濃く濃度を増して、私の気持ちを曇らせた。 「うん…。じゃあね。」 離れた向こう側に行くラズベリーちゃんとリアちゃんに、私は小さく手を振り返した。 指の先が震えていないか、変な顔になってないか、そんなことを頭の隅っこで考えていた。 「なんだよあいつ、まったくなー?」 キリクが話しかけてくる。ああ、返事をしなきゃ。 でも、なぜか今は、ラズベリーちゃんのことで、声が出なかった。 「チセ…?」 キリクが私の顔を覗きこんでくる。 もういいかげん、声を出さなくちゃ。返事をしなくちゃ。 私は震える声にならないように注意しながら、言葉を喉の奥から引っ張りだした。 「あ、ごめん。ぼーっとしてたわ。」 「仕事で疲れてんのか?」 「あはは、そうみたい。」 無理に笑ってないかな。泣きそうになってないかな。 ああ、だめ。なんでかな。 「無理するなよ。」 キリクがちょっと心配そうな声で、そう言ってくれた。 「うん、ありがとう…。」 そう言うのが、精一杯だった。 しゅわしゅわと、さっきまで楽しかった、うれしかった気持ちが消えていくような気がした。 相変わらず、もやもやとしたものが色濃く、心の中を覆っている。 ああ、まただわ…。 ぎゅっと、胸の奥が痛いくらい締め付けられる。 闇の色が、心臓や肺や脳に沁みこんできて、ぐるぐると気持ちをかき乱してくる。 胸の中でうずくこの感情に、名前をつけたりなんてしたくなかった。 |