「チハヤ、いらっしゃい。」



その声を聞き終わらない内に、僕はアカリの部屋に足を入れた。

手にしていた買い物袋が、がさりと揺れた。

袋から覗いているワインを見て、アカリがあっと声を上げた。



「ワイン買ってきてくれたの?うれしい。」


そう言うと、アカリはにこりと笑った。

ドアを閉え終えた手が僕の買い物袋をぱっと取り、中を覗き込む。

僕は、彼女が中身をチェックし終えるのを待ってから、買い物袋を自分の手に戻した。



「これは、料理に使うためだよ。」

僕の言葉に、アカリはちょっと残念そうに、眉を下げた。


「残らない?食後に飲みたいな。」


「さあね。」


今日の夕食の料理を考えながら、僕はしれっとそう言った。



「もう。意地悪言わないで。」



アカリがちょっと唇を突き出して、不満気に声を漏らした。

僕は、アカリのその表情が愛しいやら可笑しいやらで、ふっと口元を緩めた。

僕のその笑みをアカリは逃がさず、彼女の頬はさらにちょっと膨らんだ。


そんな些細なやりとりも、アカリとだったら、僕の心の中にぽんぽんと音を立てて滑り込んでくる。


僕はさっそくキッチンに立った。

自分の家、職場、その次に慣れ親しんだものとなってきた彼女のキッチンのふちをさらりと撫でた。

アカリがこのキッチンに立って料理する姿を思い浮かべる。

まだまだ要領を得ない彼女が、自分が残したメモを見つめながら、鍋に中身とにらめっこする姿とか、

ぱっと頭に思い浮かべただけで、もう一度口元が緩んだ。


もう片方の手に、持っていた袋から色とりどりの食材たちを並べた。

彼女の口に運ばれるその瞬間に、どんな表情を見せるだろうと考えながら、

調理することが、最近楽しくなってきていた。









****** ****** ******





「できたよ。」


僕のその声に、テーブルを拭いてコップに水を注いでいたアカリが、ぱっと顔を上げた。


「やった。いい匂いがずっとしてたから、いつかなって待ってたの。」


アカリは、僕の片手からパスタが入った皿を受け取った。

すんと、彼女の鼻が小さく動く。口元がほころぶ。


「おいしそう。」


アカリの言葉と、僕が先ほどまでアカリが拭いていたテーブルに皿を置く音が、ほぼ同時に空気に鳴った。

パスタから生まれた湯気が、ゆらりと僕とアカリの間で、舞うように上へと上がって見えなくなった。


「食べようか。」


イスに腰掛けて、いただきますと二人で唱えた。

アカリはすぐにフォークとスプーンを手に取って、

かちゃかちゃと小気味よい小さな音を生みながら、

パスタをくるくるとフォークとスプーンの上にとらえ、口に運んでいった。


僕はアカリのひとつひとつの動きに目を向け、見つめていた。

自分の皿の中にはまだ、手つかずのパスタが湯気を作り出していた。




「おいしい。」


さも幸せな表情を浮かべながら、彼女はうっとりとした声を出した。

僕の身体はその言葉を聞いて、ふっと軽くなった。


まるで、罰を許された罪人のように、安堵の気持ちを抱いた。

彼女のその言葉を聞くために、僕は今までキッチンに立って、

料理を作り続けてきたのではないかと思った。




「チハヤ、ほら食べて。冷めないうちに。」


急き立てるように、アカリはそう言った。

アカリが持つフォークとスプーンの先には、もう次のパスタがくるくると回っていた。


僕は、アカリが次に口に運ぶまでの動きを見逃すことに残念に思いながら、

手元のフォークとスプーンを動かし、パスタに目を向けた。


それからしばらくふたりとも、もくもくと食べていた。

ただ、カチャカチャと食器が触れ合って鳴く音や、コップを机の上に置く音だけが響いていた。

僕はパスタを胃の中に落としながら、ちらちらとアカリの食べる姿を眺めていた。


アカリの口の中に消えていく調理した料理たちが、

どのようにアカリの胃の中に落ちていくのだろうと想像していた。

彼女がフォークとスプーンでくるくるとパスタを回したように、

料理たちはアカリの食道を、くるくると回りながら落ちていくのだろうか。


そんなことを考えていた僕の方を、いつの間にかアカリはじっと見つめていた。

僕の表情を伺っている、というような瞳の視線だった。





「ねえ、チハヤ。」


そっと、切り込んだアカリの話し方に、僕はぴくりと反応した。


おずおずと、話の初めを紡ぎ出すアカリの声音が、なぜか気に食わなかったのだ。

ちょっとだけ、時間が止まったかのようだった。

アカリが次の言葉を作りだすその唇を、僕は少しいぶかしげに見つめた。



「実はね・・・マイちゃんが。」



やっぱりと、心の中で呟いた言葉を口に出さずに、

僕はカチャリと皿を鳴らした。ぴくっとアカリの指先が震え、続きの言葉を紡ぐことを彼女は止めた。



「その話はいい。聞きたくないね。」


きっぱりと、そう言った。

アカリの眉はたちまち困ったように下がり、その瞳はどうしようかと一度震えた。

そんなアカリの表情を見ても、僕は言葉を引き下げなかった。



「・・・・でも、私。」



そこまで言葉を出して、アカリは僕の表情をもう一度うかがった。


きゅっと結んだ僕の唇から、次の言葉が出てこないことを知ったアカリは、

弱弱しい声で言葉を続けようとしたけれど、ぱたりと声を出すことをやめてしまった。




「ごめん・・・もう言わないわ。」


沈黙が、さあっと上から舞い降りてきたかのように、二人とも口をつぐんだ。

僕は、あと少し残ったパスタを、食べる気にもなれなかった。


先ほどまでの満たされた夕食の時間は、さっと後ろの方に隠れてしまい、

今はただ居心地の悪さと、なぜアカリがそんな話題を持ち出したのかという疑問と不満が、

もやもやと頭や胸の中を満たしていた。





「僕がきみのこと好きだってこと、そろそろ自覚してもいいんじゃないの?」




イライラしながら、僕はそう言った。

ぱっと、アカリの顔が上がる。

朱色に染まった頬は恥ずかしさというより驚きのほうが近い色合いをしているように、僕には思えた。

そんなアカリの頬の色が、より一層僕の腹の中にいいようもない苛立ちを潜ませた。



「気付いてないとは、言わせない。」


確かに好きだとか愛しているとか言った覚えはないけれど。

誰とも違う関係を僕たちは時間をかけて、確実に作ってきていた。

その時間を、その関係を、アカリはずっと確かに一緒に、共有してきたはずだ。


なのに、彼女の口から出た言葉は、なぜ、いったいどうしてマイの話なのだ。



「ええ、分かってる。でも、チハヤ・・・・。」


「なに。」

ひゅっと、アカリが息を吸い込む音が耳に伝わってきた。

僕の苛ついた気持ちが、アカリにも伝わったのだろう。

アカリは意を決したかのように、唇を震わせながら、声を紡いだ。


「私、あなたが溺れているような気がして、怖いの。」


その声は、揺らいでいたが確かに、僕の耳に滑り込んできた。


いぶかしげな僕の表情をじっと見つめたまま、アカリはもう一度息を吸った。

その音がどこか虚しく、部屋に響いた。



「ときどき怖くなるの。」



「なぜ。」



まっすぐと、僕はアカリの瞳を見つめ、

その唇が、次に紡ぎだす言葉の形を見逃さまいと、ほとんど睨むようにアカリを見つめ続けた。



「私に見せる表情よりも、違う人に・・・たとえばマイちゃんとかに見せる表情の方が・・・・・。

チハヤが、マイちゃんと一緒の時の方が幸せなんじゃないかって、思うときがある。」


「バカバカしい。」


吐き捨てるように、僕は言った。


アカリは分かってない。僕がアカリに見せているときの表情こそが、

ただまっすぐに想いを届けたい人に向けた表情であることを。

なにも考えず、貼りつけた笑顔を見せればいい他人とは違うということを。


どうしてこんなにも長い時間を共有して、僕がまっすぐに気持ちを向けているのに、

アカリは僕の気持ちをわかってくれないんだろう。心の底に潜んだ苛ついた気持ちは、

彼女の方に鎌首を向けたままじっと、爆発してしまわないように抑えていた。



「ええ。」


アカリは僕の気持ちにうなずいた。

しかしそのあとに、でもと言葉を付け足した。


「ほんとうのことを言ってほしいって、ときに思うわ。今だからこの際、言うけれど。」


ひゅっと、氷の手に掴まれたかのような気持ちになった。

そして一瞬、アカリが何を言ったのか分からなくなった。

いや、何を言ったかはっきりと分かっているからこそ、分からなくなったのだ。


アカリの言葉は、僕の心に潜んでいた苛ついた気持ちをただちに鎮めさせ、

ふんわりと僕の身体を包むように沁みていった。頭の中は、ただ真白いままだった。



なんといっていいのか分からなくなったまま、身じろぎもしない僕に、

アカリはそっと手を伸ばしてきた。ふわっとアカリの指の先が、僕の手の甲に触れる。

ぴりっと小さな電撃のようなものが、手の甲の上を踊るように走っていったような気がした。


アカリが触れたところは、ぽっと温かくなる。

その指の先が、僕の頬をかすめるだけで、ふわっと彼女の優しい空気を感じることが出来る。



全部、手に入れてしまいたい。


アカリが僕に放つ優しさとか慈しみ、ふっと投げかけたときの視線もすべて、

手の平の中に丸めて、口の向こうに飲み込むことが出来たらどんなにかいいだろう。

アカリが放つ雰囲気をすべて吸い込んで、僕の胃の中で温めていたい。



ただ、愛されたい。


たったひとつの感情は、木の枝のように次から次に枝分かれしていき、

いろんな気持ちや欲がからまって、僕の中で違う欲望に形を変えていっているような気がした。



愛してる。

その言葉だけじゃ足りない。もっとほしい。


アカリの瞳が、僕だけを見る。唇は、僕だけの名前を呼ぶ。

触れるのは僕の髪の毛だったり、手の平だったり、僕の肌の一部だ。

他の誰でもない。ただ、僕だけを見ていてほしい。



そんな欲だけにまみれた言葉を、正直に言葉にしたら、

君はどんな顔をするのだろうか。

僕を見つめる視線は、驚きや偏見を含んだものに変わってしまうのだろうか。

試してみようって思うほど、僕は馬鹿じゃない。

ただ、アカリをどうやってつなぎとめておくか、そればっかり考えている。



「チハヤ。」


アカリが呼ぶ。僕の名前だ。

こんなに自分の名前が胸の奥で響くとは思わなかった。

アカリだから、彼女だからこそ、僕の名前を響かせながら呼ぶことができる。



「私は、ここにいるよ。」


「わかっている。」


「わかってないよ。」


「チハヤはいままで、自分は独りだと思っているでしょ?」


「・・・・・・・・・・・・・。」


僕はその言葉に、目を閉じた。

アカリの視線が暗闇に遮られて見えなくなった。



固く閉ざした心の膜は、アカリの言葉や表情、そのしぐさだけに反応し、引き込もうとする。

さきほど、あれほどに僕にとって残酷な言葉を吐いた彼女の言葉でさえ。

まっすぐにアカリを見る。アカリの瞳の中は潤んでぼやけていた。



「アカリが好きだ。」


「うん。」


彼女がしっかりと、そして確かにうなずいた。

アカリの瞳の色から不安が拭い去り、小さな喜びが舞い上がっているように僕には見えた。


そんなアカリの表情を見つめて、

僕は手を伸ばして、彼女の頬に触れて、ずっとこの腕の中に閉じ込めておけたら、

どんなに楽な気持ちがするだろうと、そんなバカなことを思った。



「君は最低だ。残酷だ。」


「ごめんなさい。あなたの気持ちを確かめたかったわけじゃないの。私本当に不安だったの・・。」


アカリ自身も自分の気持ちをすべて吐き出してしまい、心の枷がはずれたのか、

まるでスコールのように、大粒の涙をぽたぽたと頬にこぼした。

何が起こったか分からなかった子どもが、事態を理解してわっと泣き出したのと同じだった。


僕はイスから立ち上がった。


ガタっとイスやテーブルが音を立てたのとほぼ同時に、僕はアカリに手を伸ばして抱きしめた。

彼女の濡れた頬が、僕の首筋にひやりとあたった。

そして彼女が泣き出してしまう前に、言おうと思っていたことを空気に乗せて言葉を紡いだ。



「それなのに、愛おしくて仕方がない。」


アカリは僕の言葉に、きゅっと僕の背中のシャツを小さく掴んだ。

目の前で抱きしめている彼女の温もりを感じて目を閉じながら、僕は言葉をつづけた。




「ずっと、そばにいてくれないと、許さない。」


「うん、そばにいるわ。」


ぱっと、アカリが顔を上げ、僕の瞳を覗き込みながらそう言った。

今だに涙で頬は濡れていたけれど、瞳の中はちらちらと光っていた。



それは、狂気にも似たものなのかもしれない。

彼女は僕の胸の中の一部でも知っているのだろうか。

知っていてもやはり、アカリは僕をまっすぐと愛してくれるのだろうか。



いや、アカリはきっと気付いている。


それでなお、僕の気持ちを確かめさせ、僕の言葉に頷いている。

ああ、これはやっぱり狂気だ。でもそれでいい。


愛はきっと、狂気から始まるのだから。





「私は、ここにいるよ。」



もう一度、確かめるように言ったアカリの言葉を受け止めて、

僕はアカリの熱を奪うように、まるでむさぼるようにアカリの身体を抱きしめた。








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綾瀬さん
報われるヤンデレチハヤ→アカリでリクエストをいただき、ありがとうございました。
ヤンデレチハヤってどうゆう感じかしらって思っていたのですが、私の書くチハヤは
ほとんどがヤンデレな性格だわ、ということに気付き、それからはとても楽な気持ちで
文章を書かせていただきました。
お気に召していただけたら幸いです。
素敵なリクエスト、本当にありがとうございました!