魔法使いさんのドアをノックするとき、私はかならず深呼吸をする。 魔法使いさんの部屋には、そこらに魔法のかけらが含まれていて、 それが空気に沁みだして、知らず知らずに自分の身体の中に取り込まれているような、錯覚になる。 きゅっと、不思議な気持ちを抱くこともある。 他の誰の部屋にもない、どこかわくわくして、どこか不思議で、どこか怖い。そんな感覚。 だから、こんこんとノックする前に、私はすうっと空気をお腹の中に入れる。深呼吸をする。 ちょうど、ちゃぽんと、水の中に入るみたいに。 こんこん。こんこん。 ノックをすると、ちょっと時を使ってから、魔法使いさんはドアを開ける。 私はその間、ドアの間から魔法のかけらが、じわじわと沁みだしているのではないかと、 ドアのわずかな隙間をじっと、見えもしない魔法のかけらの姿を見つめている。 「・・・こんばんは。」 低い声が、耳に響く。 いつのまにかドアの隙間が開き、声のする方に顔を上げると、魔法使いさんがすぐ目の前にいた。 「こんばんは、魔法使いさん。」 挨拶を返すと、ドアがとり大きく開けられ、 私はその魔法使いさんの部屋へ吸い込まれるように、足を踏み入れた。 ちゃぽん。耳の奥で小さく水が跳ねる音が響く。 肺にためた空気と、魔法使いさんの部屋で呼吸して送り込まれた魔法の欠片をふくんだ空気が混ざりあう。 肺の中から、不思議な感覚に落ちる。けれどそれは私の感覚を落ち着かせ、そして静かだった。 もしかしたらそれは、魔法使いさんの存在があるからなのかもしれない。 魔法の欠片を生み出す魔法使いさんが、この部屋にいるだけで、私は肺の中から全身で魔法を感じることができる。 ずっとこの部屋にいたら、私の身体にも魔法の欠片がしみこんで、 魔法が使えるようになるんじゃあないかと、そんな錯覚さえ感じてしまう。 「・・ちょうど・・・コーヒーを、淹れたとこ・・・・。」 ぽつりぽつりと、丁寧に、魔法使いさんは言葉を紡ぐ。 言葉を大切にしているその話し方は、私の心にぐっと沁み込む。 机に目を向けると、湯気を立てたコーヒーカップが二つ置いてあった。 「わあ、ありがとうございます。」 まだ熱いくらい温かいコーヒーカップを手に持つ。 どうして魔法使いさんは、私が来るタイミングとぴったりにコーヒーを用意することができたのだろうか。 偶然ではなくて、やっぱりそんなささいなことも魔法の力が関係しているのかなと、そう思ってしまう。 魔法使いさんの部屋は落ち着いた雰囲気とともに、いつも静けさが隣にいた。 コーヒーを飲んで、お腹の中を温めながら、私はいつもその静けさに溺れそうになってしまう。 部屋のあちこちで、コーヒーのカップが机の表面にあたる音だったり、私と魔法使いさんの息遣いだったり。 けれどこの部屋の中では、そんな音たちがどこか違う場所に吸い込まれて、私の耳に届かなくなってしまう。 あるはずの音を拾うことなく、私はただ、この部屋の中で、 魔法使いさんの落ち着いた視線が私の視線と交わる瞬間までを数えたり、 彼の長い指先がコーヒーのカップを触るしぐさを眺めていたりする。 私たちはそんなささいだけれど、確かな時間をこうやって共有する。 多く語ったりすることは、積み重ねた時間の割には少ないのかもしれない。 コーヒーの湯気を見つめていたり、透き通った夜には星の姿を眺めたりしていることの方が、ずっと多かった。 「おいしいです。」 コーヒーが肺の横を通って、胃の中に落ちていく。 魔法使いさんは、口元をゆるく結んで、ふっと優しそうな顔をつくる。 なんでもない、こんなしぐさに、私の胸はきゅっと締めつけられる。 でも、恋をしているとは違う感覚なのかもしれない。 魔法使いさんはたんたんと、私との時間を過ごしている。 その中で恋だったりとか愛だったりとか、魔法使いさんの中に芽生えている様子も全然なくて、 こっそりと見つめていると、私自身も魔法使いさんに対してのこの感情が恋なのか愛なのか、 それとも違うものなのか、分からなくなってくる。 もしかしたら、魔法の部屋の魔法のかけらが身体中に沁みこんで起きている反応なんじゃないかって、思ってしまう。 ただ、魔法使いさんと一緒にいると、ふっと力を抜いて安心することができることは、 魔法のかけらの反応じゃないって、そう思っていたい。 「そういえばこのあいだ、マイちゃんが占ってもらったっていってました。」 ふっと思い出したことを、魔法使いさんに伝えた。 「・・・・ああ・・・。」 コーヒーカップを口元に運びながら、魔法使いさんはこくりと、かすかにうなずいた。 町では占いやさんで通っている彼にとって、恋する女の子の占い相談は珍しいことではないのだろう。 「マイちゃん、喜んでました。」 頬を染めながら、嬉しそうに話すマイちゃんの瞳が、ビー玉のようにちらちらと光っていたことを思い出した。 「・・・ヒカリは・・・占いにこない・・ね・・。」 小さく小首を傾げながら、魔法使いさんは私にそう言った。 魔法使いさんが言っている占いというのは、明日の天気を占ってもらうのとは別のやつで、 先日マイちゃんが頬を染めながら魔法使いさんに占ってもらった方のことだ。 私は一度だって、魔法使いさんに恋の占いをしてもらったことがない。 相手が自分にどんな好意を寄せているか、知りたくないわけじゃないけれど・・・。 一番知りたいって、思っている相手が占ってもらう張本人だなんて、 そんなの魔法使いさんに口が裂けても、言えるもんじゃない。 占ってもらうときは、想いの形を口で伝えるときだ。だけど、まだまだそんな時じゃない。 私は駆け巡った頭の中での想いを、魔法使いさんに悟られないように、 占いをしないことへのもっともらしい理由を考えたけれど、 焦った思考回路が魔法使いさんを納得させるような断る理由を考えられるはずもなく、 私はうつむいて、ただ口をもごもごさせていた。 「えっと・・・それはですね・・・。」 私は頭の中になにかいい言葉が降ってこないかと願いながら、 言い訳の最初のような言葉たちばかり口からこぼした。 魔法使いさんはじっと、私の返事を待っている。 異なった色を放つ瞳がこちらを見つめている。 魔法使いさんはいつも、私の言葉の端が空気に触れて耳に届くまで、じっと待ってくれる。 そんな魔法使いさんとの会話はゆっくりで、心がやすらいだ気分になることが多いのだけれど、 いまこの瞬間は、魔法使いさんがなにか違う言葉を生み出してくれないだろうか、 私の言葉が出てくることを待つのをやめてくれないだろうかと、わがままなことを思ってしまう。 「・・・は、はずかしいじゃないですか。・・・恋の、占いは・・・・。」 やっとのこと絞り出した理由は、もっともらしいといえるものではなかった。 頬が熱くなるのを感じる。 「・・・そうか。」 コーヒーカップが置かれる。カチャと机にぶつかって、小さく音が鳴る。 魔法使いさんは、ふっと視線を下に向ける。伏せたまつ毛が私の方を向く。 魔法使いさんが私の言葉を聞いて、なんと思ったのか分からなかった。 「き、今日は星が見えそうにないですね。」 まだ熱い頬と、さっきの自分の言葉をどうにか過去の向こうに流してしまいたくて、私は口早に言葉を継いだ。 魔法使いさんは私の言葉を聞くと、瞼を持ち上げてこちらにふっと視線を向けた。 「・・・ヒカリ・・・星が、見たいの・・・?」 大きな望遠鏡の方をちらりと見た後、魔法使いさんはそう言った。 彼が持つ巨大な望遠鏡でも、雲が覆っている今日の空模様の中、星を見つけることはほとんど難しいことだった。 私は、まだほんのりと温かいコーヒーカップを手に包みながら、こくりとうなずいた。 話題を変えたくてそう言ったのだけれど、私のうなずきに魔法使いさんは少し残念そうに眉をちょっと下げた。 小さな憂いを含むその表情を見たら、少し申し訳ない気持ちになった。 なにか、新しい言葉を紡がないとと思っていると、 考えるように魔法使いさんは視線を動かし、ちょっと私の方を見てきた。 「・・・・星・・・見る・・・?」 ぽとりと、空気の上に落とされた、魔法使いさんの声に、私はぱちりと瞬きをした。 「・・え。でも、この天気じゃ・・・。」 「・・・ちょっと・・待って。」 カタリと音を立てて、魔法使いさんは椅子から立ち上がった。 魔法使いさんの綺麗に編み込みされた三つ編みがゆらりと揺れる。 立ち上がった魔法使いさんは、望遠鏡が設置された二階の方に歩いて行った。 ごそごそと、なにかを探す音を立てたあと、それほど長い時間をかけずに、 魔法使いさんは私の方に戻ってきた。 「魔法使いさん?」 魔法使いさんは何かを探しあてたはずなのだけれど、服の中にしまったのか、 私はなにを探したのかわからなかった。 「・・・外に、出よう・・・。」 「え。」 声が小さく上がる。魔法使いさんは、私を促しながら部屋のドアを開けた。 私は瞬きしながら、どうしてですか?という疑問の声を喉にはりつけたまま、 魔法使いさんに促されるまま、部屋の外に足を向けていた。 「こっち・・・。」 有無をいわさない・・とまでは言わないけれど、 魔法使いさんに声をかけられないまま、私はその背中についていった。 さわさわと風が頬にあたる。夜になってからいくらかたった外の空気は、ひんやりとしていて気持ちよかった。 そんな外の空気を肺いっぱいに吸い込んでいると、 するすると魔法の欠片が身体から外に沁みだしているような気分になった。 魔法使いさんの部屋だからこそ、私は、魔法の欠片を感じることができていたのだ、と改めてそう思う。 沈黙の中で、ただ二人の足音に耳を傾けている時間は、それほど長く続かなかった。 魔法使いさんは気付いたらはたと立ち止まっており、私の方を向いていた。 気付いたら、浜辺に着いていた。 ざざあと音を立てて、浜辺に寄ったり離れたりする海の音が、心地よく耳に響いている。 星の見えない空が暗いせいか、 ほとんど真っ黒に見える海の水たちは、遠くを見るほどゆらゆらと揺れている。 「魔法使いさん・・・?」 そっと呼ぶ。 夜の闇の中で、魔法使いさんの銀糸のような髪がちらちらと光って見えるような気がした。 「・・・・本当は・・・もっと集まってから・・見せようと思ったのだけど・・。」 魔法使いさんは、ポケットの中からそっと袋に入ったなにかを取り出した。 ゆっくりとその袋を取ると、ぽわっと光る光の液体のようなものが入った試験管が姿をあらわした。 「すごい・・・。」 その不思議な光に、私は思わず息を飲んだ。 「なんですか?このきれいなもの。・・・魔法?」 試験管の光から目が離せられなくて、 私はその光が消えてしまわないように、そっと声を出した。 「まだ・・これから・・。」 魔法使いさんは試験管の蓋を抜いた。 きゅ、っと小さな音を立てて、蓋がはずれた。 試験管を揺らしてから、魔法使いさんはその光を、海の中に流した。 光は海の中に広がっていき、溶けていく。 「あ。」 声が思わず出てしまった。 さっきまで、真っ黒に近い色を含んでいた海が、ちらちらと慎ましい光を見せ始めた。 まるで海が空になったかのようだった。 その光は、星のような顔を見せながら光り輝いている。 「すごい・・。どうやったんですか?」 海の星たちから目を離さずに、魔法使いさんにそっと聞いた。 「・・・・星の光を少しずつ・・・・・、魔法で分けてもらって・・・集めていた・・・。」 ゆっくりと、魔法使いさんはそう答えてくれた。 魔法使いさんの言葉に、私はもう一度、すごい・・と声を漏らした。 そしてただただ、特別な星たちを見せてもらったことがうれしくて、夢中になって海を眺めていた。 しばらく二人で、ちらちらと光る海の星たちを眺めていた。 いつまで見ても飽きることがないと、そう思った。 沈黙が続いていた中で、突然、魔法使いさんが口を開いた。 「ヒカリは・・・・想う人がいないのかもしれないけれど・・・・。」 「え?」 どうして、いきなりそんなことを魔法使いさんが言い出したのかわからず、私は一瞬固まってしまった。 けれど、コーヒーカップを手に持って話していたときのことを思い出して、 魔法使いさんが私が恋占いをしないのは、 そもそも想い人がいないのだという風に思われていたんだということに気付いた。 「あの、魔法使いさん・・・。」 魔法使いさんの顔を覗き込む。 二つの色を含む瞳がすっと、こちらを向く。 その瞳に、次の言葉が続かなくなる。 しばらく見つめ合っていたけれど、魔法使いさんはふっと、口を開いた。 「・・・ヒカリのそばに・・・ずっといたいと、思う・・。」 その言葉を聞いた瞬間、きゅっと心のどこかが鳴った。 「・・・ヒカリ・・・?・・泣いているの・・?」 そう言われて初めて、自分の頬から涙が流れていることに気付いた。 慌てて指で涙を掬い上げて、魔法使いさんに向かって小さく笑った。 「違うんです・・・・嬉しくて・・・。」 やっとのこと声を出したけれど、絞り出したような声でかすれて空気に溶けていった。 ちょっと深呼吸する。 魔法使いさんの部屋に入る前よりも小さく、でも深く。 「私も・・そう思ってたんです。」 きゅっと、魔法使いさんのローブの裾を掴んだ。 そんなことするの初めてだったから緊張してしまったけれど、ただもっと近くに魔法使いさんを感じたかった。 頬がまた熱くなる。 きゅっと握った私の手に、魔法使いさんの手が重なった。 温かいその手が触れた瞬間、ぱちりと、目が合う。 魔法使いさんがふっと微笑む姿が、 きらきらとこぼれる海の星たちの光で、まぶしいくらいとてもきれいだった。 魔法使いさんでリクエストしてくださった方へ 7月いっぱい中にぎりぎりUpできませんでしたが><楽しく書かせていただきました。 魔法使いさんと言われているのに、そういえば魔法を混ぜた話を書いたことがないなあと思い、 この話を書かせていただきました。 読んでいただけたら嬉しいかぎりです^^ 最後に素敵なリクエストをしてくださって、ありがとうございました! |