産声があがる。声高で、猫のような声。

弱弱しくて、この世界に誕生してしまうにはまだまだ儚くて、一瞬で壊れてしまいそうな声。

初めて腕に抱いた我が子は、想像よりもとても小さくて、柔らかかった。







「あれ、アカリちゃんじゃない?」


マイのその声に、僕はびっくりしてその先を見つめた。



「ねえチハヤ、アカリちゃん、赤ちゃんを抱いてるよ!」


ぎゅっと、心臓を掴まれた。ひゅっと、冷たい風が通る。

そのとき、様々な情景が、僕の頭を通り過ぎて行った。


混ぜて、混ぜて、目を瞑って。

でも消えていかなかった彼女との思い出は、

モノクロにもならずひとつひとつ僕の胸に刻まれている。

懺悔したあの夜のことも、冷たく頬に吹いた風の音も。

全て抱いて生きていく覚悟を、僕はまだしかねているのかもしれない。



「もしかして、赤ちゃんをゆっくりした場所で産むために、町を離れてたのかなあ。」

うーん、ここよりもゆっくりした場所ってどこだろう?

ああ、でもアカリちゃんのことだから牧場が気になっちゃうのかもね。彼女、働き者だもんね。

と、首を傾げながらマイは次々と予測を立てていく。


「・・・・そう、かもね。」


僕は彫像のように動けなくなっていた唇を、やっとのことで動かして、マイの言葉に相槌を打った。


ああ、嘘っぽく聞こえなかったらいい。

なんて、そんなこと思う資格も自分にはないというのに。



「チハヤ。」


「お祝いしてあげよう。」


「だって、アカリちゃんとギルの子供なんでしょ?」


ぽん、ぽんとマイの口から言葉が漏れる。

僕は一瞬と少しの間、目を瞑った。

違うなんて誰が言えるんだろう。気持ちに蓋をした。

誰が?アカリが。

僕を、自分を、マイを、

誰も傷つけないために、彼女が選んだ道だった。



瞼をふっと持ち上げる。ぱっと、現実がそこに広がっている。

きゅっと、マイの手が、僕の裾を掴んだ。



「マイ。」


彼女の名前を呼ぶ。

結婚した、子も授かった。幸せなはずだった。

でも、僕は間違いを犯した。




「ね?」


マイの目は、まだ二人の姿を追っていた。

ビー玉のような、何もかも透明に映してしまいそうな瞳の色が、僕の罪の意識を再確認させた。




「・・・うん、そうだね。」



「おっきなケーキ、焼いてあげてね。」


「うん、大きいのをね。」


「ふふ、楽しみ。」


「マイ。」


「なあに。」


「帰ろう。」


裾を掴んでいたマイの手を、きゅっと掴んだ。

これから共に生きていくと女神の前で誓った妻の手は、小さくて柔らかい少女のままの手だった。

この罪を、一生背負って生きていこう。

そんな僕の隣を歩かせてしまうには、妻の手はあまりにも幼く、儚かった。










*****************





不思議な気持ちだった。





あまりにも小さくて、潰れてしまいそうな小さな命を抱えているアカリは、

いままでのアカリと別人のようで、でもアカリの姿で。

時間だけじゃない別のものが、ああ、そうかこの子が、アカリを母親にしたのだと、

僕はようやっと悟ったような気持ちだった。




「瞳がまだ開かないのを分かっているのに、確かめようとしたの。・・・だめな母親ね。」

じっとアカリは、抱えた子供を見つめたまま、僕に話しかけてきた。

赤ん坊は目を瞑って、すやすやと眠っている。瞳の色が何色かは分からなかった。



「・・・・いいや。」


「この子がね、生まれてきた瞬間に泣いた声を、私は一生忘れないと思う。」


泣いた声、聞いた瞬間ね。

嬉しい気持ちはもちろんあったのだけれど、なんだか無償に悲しかったの。

ごめんね、って言葉が頭に浮かんだの。なんでだろうね、なんて浅はかな気持ちでいちゃだめなんだって、

改めて、思い知らされたの。



「赤ん坊が初めて泣くのは、これからくる苦しみや悲しみに憂いてだと言うが、違うと思うぞ。」



アカリの手のひらに手を置いた。

温かい。


ずっと、握っていたいと思ったのは、いつの日からだっただろうか。

これからも、握っていたいと思う彼女は、母になってもなお、美しかった。

僕は自分の言葉を続けるために、ひゅっと息を吸った。冷たい風が喉を通っていく。


「きっと、この子はこれから、お前が産むと決心したあのときに、感謝するようになるだろう。」


アカリが、こちらを見る。

泣きたいくらいまっすぐに、その目はもう母の目をしていた。




「そう、思ってもらえるように育てよう。」


きっとこの子の目も、アカリそっくりの瞳になるだろう。






「なんて名前にしたんだ?」


「まだ、決めてないの。」


「決めてない?」


「うん、迷っちゃって。難しいね、子どもの名前って。

産まれる前にいくつか考えていたのだけれど、いざこの子の顔を見たら、どれもなんだかしっくりこなくって。」



アカリは囁くように口早にそういうと、ちょっと考えた後で、

僕のほうをちらりと見た。彼女の瞳の奥が揺らいでいる。


「・・・一緒に決めてくれる?」


ぱちりと僕は瞬きをする。思ってもみない申し出だったからだ。




「産まれてきたこの子と出会って、決心したの。

もう私は、この気持ちに揺れない。自信を持って、自分の道を歩まなきゃって。」



こくりとだまって、相槌を打った。

アカリは、次の言葉を紡ぎだす前に、小さく息を吐き出した。


それは、音もなくすっと空気に溶け込んでいった。



「自分の道を歩むために、この町に帰ってきた。それでね、ギル。

私が進みたい、ずっと頭の中で考えている道の私の隣には、ギルがいるの。」


息を吸う、吐く。

色を持たない二酸化炭素は、そっと空気に溶けていく。



「私には、ギルが必要です。」


「こんな私でも、いいですか?」


ぎゅっと、胸を掴まれた。ああだめだ。僕はいつもアカリにとらわれる。

抱きしめたくなって、思わず彼女の肩に触れたけれど、

彼女の胸に抱かれて眠る赤ん坊をつぶしてしまいそうで、肩に触れたまま、ぼくは彼女の瞳を見つめた。




「ああ。」

ひゅっと息を吐く。冷たい、でも温かい。たまらなくなった感情を、一緒に吐き出す。


「ほんと私、ギルに甘えてばっかりだね。」


「それでいい。僕がそうさせてるところもあるんだから。」


「優しすぎるよ。」


「アカリ。」


「うん?」


「なにもこの町でなくてもいいんだぞ?」


「ううん。」


アカリはきっぱりと首を振った。

彼女の伏せた睫毛が、美しいと思った。



「この町で、もう一度、やり直したいの。」


「そうか。」


僕はそれ以上なにも言わずに、

アカリがきゅっと抱きしめている我が子を抱く手に、そっと手を重ねた。






精一杯、君を受け入れよう。

あえてこの道を選ぶと決心した君に寄り添って、共に歩むことを。


これから待ち受ける苦難も、悲しみも、疑いの目も、

なにもかも、僕はきみと立ち向かうことを誓うから。



「アカリ。まだ言ってなかったな。」



「うん?」




「おかえり。」








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