「子上殿。炎が、魏を滅ぼしました。」



淡々と、言の葉を墓石の上に降らせた。言の葉に寄せた音は、どこか寂しく冷たい。



熱いと感じるほどに温かかった夫の温もりを、ひとつも身につけることのない墓石に、

元姫はどう接したらいいのか分からなかった。


けれども、この下に眠るのは確かに、長い間連れ添った夫、司馬昭であった。



一年程前までは、確かに、自分のすぐ傍らにいたというのに。


快活によく通る笑い声も、温かい息遣いも、まっすぐに一点を見つめていた瞳も、すぐそばにあるものだった。

胸の奥に、瞼の裏に、耳の向こうに、身体のいたるところに染みついて離れないのに、

そのどれもが、今や一番遠いものとなってしまっていた。






落ち着いたら、どこか二人でくつろげる、景色の良いところに出かけよう。


そう言い置いて、ついにその約束が果たされることはなかった。



思えば、二人が共に過ごした日々は、いつでも権力や争いの糸が絡み合っていた。


ただ、平穏な日々を共に過ごしたい。

その願いを胸に抱いて、何年の月日が流れて、去ってしまったのだろうか。

元姫はもう、数えることをとうの昔にやめていた。






「『めんどくせぇ』・・・なんて、言っていたあなたが、嘘みたい。」



ぽつり、ぽつりと、元姫はお墓の上に言の葉を落としていった。

そこに、自分が求めている、いつも一緒にいた夫のぬくもりはない。

けれども、共に心を休ませたいと思ったとき、ここに来るしかもうすべがなくなってしまっていた。



なにか言の葉を落としていこうと思い、元姫は口を開いた。

ただ、冷たく光るだけの石をこれ以上、熱いくらい温かな夫の姿に重ねたくなくて、

少しでも、言の葉を降らせれば、石が温かみを持つのではないのかと思って。





「あなたは、あなたの責務を果たした。」



けれども、

出てくる言葉は、どこか音の冷たいものばかりな気がしてならなかった。


この戦いが終わったら言おう、もう少し長く一緒にいれる時があれば言おう。

ぽつりぽつりと、その時々で溜まっていった言の葉たちは、喉に張り付いたまま剥がれない。




あと少し、あと少しの時があれば、二人で緩やかな時の流れを感じるままに、過ごすことができたというのに。

血生臭い戦や、権力の笠をかぶることなく、ただただ人としての暖かな時間を。


望んでいたのは、それだけだった。きっと、子上殿だってそうだ。

ただ、時代が二人をそうはさせてくれなかった。




やっと望んでいた時の流れを掴めようとしたときに、

自分の役目はこれで終わりだというように、子上殿は病に倒れてしまった。


その時、ぷつりと、自分の中でなにかが切れた音がした。





初めは、軽い症状だと聞かされていた病も、日を増すごとにだんだんと重くなっていった。


快活に笑う声がだんだん聞こえなくなってきても、ぎゅっと握りしめていた手の力が弱くなってきても、

頭の裏で思い描いていたのは、二人で明るい景色の中を歩く姿だった。


ただの一度も、何かに絡まることなく、自由に、二人で、歩くことがなかったから、

その姿を思い浮かべているだけで、

たちどころに横たわっている夫が、回復の兆しに向かうのではないかと、ただただ願っていた。




願いは叶うことがなく、ぽとりと花の頭が地面に落ちるように、子上殿は静かに息を引き取った。

ずっと、握りしめていたその手から、最後の体温が天に吸い寄せられるまで、

最後の最後まで、自分の前では穏やかな顔を作り続けようとした夫の顔を見つめていた。


地上に身体ひとつのみ残すことになっても、自分の前で夫は、小さく口を笑わせていた。






ぽとり、ぽとりと、石の上に雨が染みはじめ、だんだんと多くの雨が、降り始めた。

私の代わりに、天が泣いてくれているのかもしれない。






「子上殿・・・あなたとともに、あれてよかった。」



次の新しい時代への布石を確かに置いていった夫の姿を、瞼の裏に思い浮かべながら、

墓石にも雨にでもなく、彼だけに向けて、言の葉を紡いだ。



瞼の裏ではいつも、快活に笑うその姿で、愚痴ばかりこぼしていた姿はもう、ない。


もしかしたら天の上では、また『めんどくせぇ』なんて言っているかもしれない。

お目付け役としての責務を、もう一度全うする日が訪れるかもしれない。



その日が訪れるまでの、しばしの時の流れを、一人で味わうだけだ。




いつかまた、同じ時を過ごすことができるようになるその日までに、

また幾万もの言葉を、心に留めて、生きていこう。






一筋のしずくが、頬から転がり落ちて、冷たい雨と混ざって、くすんだ土の中に染み込んでいった。








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