アカリがいなくなってからも、町を包む空気はなんの変化もなく穏やかで、ゆっくりと確実に時は進んでいた。

ゆるやかで柔らかい町の空気の中で、変わったのはただひとつ、アカリがいないだけで。


最初は寂しいねと言っていたエリィと、ふとした時にアカリの話をするくらいで、

町でアカリの話が上がることは日に日に、そして確実に減っていった。

こうやって、アカリはただの、

昔に牧場を経営していた若い女性として、町のみんなの頭の中でだんだんに風化していくのだろう。


なんともいえない気持ちを抱きながら、

胸に灯しているこの気持ちが、たとえ町のみんながアカリの姿を頭の片隅に置かなくなってしまっても、

決して風化していかないことが、はっきりと分かっていた。


そして自分以外にももう一人、忘れれるはずがない人物がいることを。

彼は今でも、コックとして町の一人であり、よき夫であり、よき父として、町のみなに通っている。



彼の、チハヤの顔を見るたびに、腹の底から沸々と湧き上がるものがあった。

一発殴ってやりたい。いや、一発では殴りたらない。

罵声を浴びせて、彼をぐうの音が言わせれないほど、殴り倒してやりたかった。



アカリは、彼のせいで。

大好きな牧場を手放した。この町から出ていかなければならなかった。

周りには決して口を割くことができない、

初めての我が子は、出生を一生秘密にして生きていかなければならなくなった。




彼女の意志であり、それを僕は否定することはできても、結局あの日、止めることはできなかった。

そんな自分自身や、秘密を抱える行為を許し、溺れてしまったアカリの愚かしさや、

なんの報いも受けなかったチハヤへの腹立たしさがすべて混ざりあって、

そして、そのすべての怒りの矛先が、チハヤ一人へと向けられていた。



腹に巣食う黒々しいその気持ちは、

日を増すごとに、自分の中では抑えられないものに変わっていくのを、僕は感じていた。


いっそのこと殴ってしまおうか。



そう思いはじめた矢先のことだった。

とにかくすべてをぶちまけてしまおう。

そう思い、夜の帳が降り立った時間に、ひっそりとした教会に足を踏み入れた。


誰もいない協会の中で、女神に自分の気持ちを、誰にも話すことのない気持ちを、

すべて胸の中からさらけ出し、すこしでもこの抱いている気持ちを軽くしてしまおうと思ったのだ。


誰もいないと思っていた教会のとびらをそっと開けると、

一つの人影が、女神のステンドガラスを見つめていた。

その背丈や、緩やかなパーマの頭を見て、僕はすぐに、その人影の主が誰なのか分かった。


殴ってしまえたら、どんなにか楽になるのだろうか。

そう思ってきた相手が、誰もいないと思っていた教会の中に、すぐそこにいたのだ。



そのまま走り寄って、殴ってしまおうかと思った。

けれど、彼の背中を一目見たときから、感じられるオーラにも似た何かが、僕にそれをさせなかった。

自分でも何を思ったのか、いつの間にか身体を、教会の長椅子の後ろに隠していた。


彼が女神を見つめている時間は、10分だったかもしれないし、1時間だったかもしれない。

僕にはもう、時間の流れを捕える感覚が、狂ってしまっていた。


息を浅く、低く吐き出したり吸ったりしながら、

ただただ気付かれないように、チハヤの姿を見つめていた。


そんな緊張の息を吐きながら、僕はなぜか、アカリのことを思い出していた。



チハヤの思いつめたような空気をまとうその姿は、島を出ていくと決めたアカリの姿を思い出させた。

なぜ、あのとき自分は、彼女を止めることができなかったのか。


透明で柔らかな彼らの膜を、

自分の力で破ってしまえばよかったと、何度も僕は後悔した。


女神の前にたたずむチハヤの姿を見ていると、

あれほど殴りたいと思っていた、沸々と湧き上がってきていた怒りが、しゅわりと消えていくのを感じていた。


それが、なぜだかわからなかった。



ずっとこびりついていたチハヤへの思いは、

アカリを失ったことで、更に僕の中で憎しみとして燃え上がっていたけれど、


しゅわりと消えていったその怒りは、教会の静かな空気の中に、溶けて消えていってしまった。




チハヤの姿を見て、そう思った。


ああ、僕はチハヤを殴って何になるのだろう、と。


本当に大切なこと、しなければならないことは、他にあるはずなのに。











************







教会のことがあってから、二ヶ月ほどたった頃だろうか。


一本の電話がかかってきた。


トゥルルルルルル。トゥルルルルルル。



なんの変哲もない電話のコール音。

父はいま、役場の方に出ていて僕ひとりの時だった。




「もしもし。」


いつもと変わりなく電話を取った。

すると、いきなり向こうは、小さく溜息をついた。

吐息にも近いその音を聞いて、

すぐ誰だかわかってしまう僕は、相変わらずあの時となにも変わっていなかった。



なぜ、電話をかけてきたのか。こんがらがったまま、心臓の音だけが早くなった。

でもそんな疑問よりもなにより、電話をかけてきてくれたことが、素直に嬉しかった。



「・・・・アカリ、なのか?」





「・・・ギルには、なんでもお見通しなのね。」



少し低い、でもよく通る声。

ああ、変わらないアカリだ。


たとえ他の人と恋をして、子供を授かり、町を離れていようと、アカリはアカリなのだ。


「どう、して。」


「自分でも、分からないの。ただ、気付いたら、あなたの家の番号を押してた。」


「・・そうか。」


「久しぶりだね。」


「ああ。・・元気にしてるのか?」


「うん、ぼちぼちかな。そっちは?」


「変わらない。」


「そう、よかった。」


「アカリ。」


「うん?」


「手紙、・・・届いてるのか?」



「うん、届いてるよ。

手紙ありがとう。ギルって意外と筆まめなのね。

町を離れているはずなのに、毎日そこに住んでいるみたいに、私詳しくなっちゃってるんだから。」


小さな笑い声が、続けて聞こえた。

こっちも笑いたくなってくるような、笑い声だった。

久しぶりに聞いたアカリの声は、やっぱり温かくて、包み込みたくなるような気持ちになった。


「返事が返ってこないから、届いていないのかと思っていた。」


「ごめんね。なんて書いたらいいのか、分からなくて。」



「・・・いま、どうしているのだ?」


「今はね、牧場をしていたころのお金で、なんとか生活しているところ、かな。」


「そうか。」


「でも、そんなに苦しいってわけじゃないのよ。

あの頃よりも、なにもかも、時間が緩やかに流れているように感じるの。」


「仕事がハードだったものな。」


「そうね。今でも思い出して、よくあんなに働けてたなあって思う。」


一瞬の沈黙が流れる。

僕は、電話線の向こうにいるアカリに向かって、聞きたかったことのひとつを、

ぽつりと言葉にして紡ぎだした。


「・・・産まれたのか?」


「まだよ。・・・今月には生まれるって、先生が言っていたわ。」


「そうか。」


お腹が大きくなった彼女の姿を思い描いても、ぼやぼやとしていて、実感が沸かなかった。

でもそれが変えようのない真実だなんて、なんて現実はひどく、冷たいものなのだろう。




「ギルには、本当にお世話になっちゃったね。手紙の封を切るたびに、あなたの顔を思い出すわ。」


文字をひとつひとつ綴る度に、アカリの顔を思い出す。

その笑った顔も、怒った顔も、泣いた顔も、

苦しそうに顔を小さくゆがませるときも、我慢した顔も、さみしそうに揺らした瞳も。


ぽつりぽつりと、

電話線の向こうから振ってくる声を聞きながら、僕は現実的なことと夢を混ぜながら考えていた。



「もしも、時間を戻せるのなら、ひとつひとつの選択を、間違えずに選び取れたら、

私はまだあの町にいることができたのかな、って、いまさら思うの。」


馬鹿よね、過去は引き返すことなんてできないのに。

そう、アカリは続けた。吐く息が冷たい。

寂しさを滲ませたその声は、僕の耳を震わせた。



もしもあの時、時間を戻せるのなら、

今なら迷わずに彼女の身体を抱き寄せることができたのに。




「帰ってこい。」


「・・・・え?」


「部屋にある荷物全部まとめて、僕のところにきたらいい。」


「ギル、なに言っちゃってるの・・・?そんなことできないよ、だって私には・・。」


お腹の中には、別の男の、同じ町に住んでいる、今でも顔を見合わすことのある男との子がいる。

だけれど、そうだけれど。


「アカリが来れないなら、僕がアカリのところに行こう。きみを支えるから。」


「・・・・ギル。」


「噂も、人の目も、これからのことも、二人で乗り越えていけばいい。」



想いがあふれてくる。

ずっと溜めていた言葉のひとつひとつがこぼれて、

電話線を伝って、一日だって忘れたことのない彼女の耳にへと、転がっていく。



あのとき言えなかった。

彼女の気持ちを、自分の気持ちを、現実を、

一体あのとき何を優先させたのだろうか?



そしていま、僕はなにを取ろうとしているのだろうか?



ぐるぐるとずっと考えてきたことが、頭の中を回る。洗濯機のようだ。

迷い続けていたことにひとつ、終止符を打とう。


僕は、ただ、ありのままの彼女と、一緒にいたいと思ったのだ。





「あのときをもう一度、やり直そう。」










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