「産むのか。」



静かだった。

役所の二階の小さな部屋は、普段からあまり人が来ない。

その一室で、僕とアカリは椅子に隣掛けに腰を落ち着かせていた。



僕が発した一言が、ピンとした静けさを破って、部屋に響いた。

言葉がどこか生々しく思えて、僕はアカリの顔を見れず、彼女のお腹に目をやった。





「当たり前じゃない。」



一瞬、彼女の顔を見た。彼女も僕の方を見ずに、机の一点を見つめていた。

どうかすると壊れてしまいそうだった。

今にも震えだすんじゃないかと思う、彼女の細い肩が弱々しく見えた。


けれど、彼女の言葉は凛としていて、迷いがなかった。

いや、悩んだのかもしれない。

悩んで、悩んで、悩み抜いた結果の答えだったから、こんなにも簡潔で真っ直ぐ正直なのだ。



僕は、外に目をやった。

ホコリが窓枠にほんのりと溜まっている。それは、舞うようにちらちらと日の光を浴びていた。

一瞬、彼女が日陰の中を歩く姿が頭に浮かんで、

すぐに頭から追いやろうとしたけれど、錆みたいにくっついた影が残っていた。






「分かってるのか?」




「・・・何を?」


「お腹の子供のことだ。狭い町だぞ、噂はすぐに広がる。」


「父親の名前は言わないわ。たとえ、ギルでも。」



彼女は、早口に言った。きっぱりとしていた。

子供を産むと決意したのと同じくらい、凛としていた。こんな声を、彼女は出せるのだと初めて知った。



「僕が、分からないとでも思っているのか。」



彼女をもう一度見やる。

驚いた瞳が、すぐにこちらを見た。


いらいらとした口調になる自分が、とてつもなく嫌だった。

こんな風に言いたいわけではなかった。もっと、丁寧に言の葉を紡ぎたかった。

けれど、彼女の声から、言葉から、決意の強さが伺えて、

それが誰のためなのか安易に分かる僕の気持ちを逆撫でするには充分すぎた。




「・・・いつから?」


小さな声。

そわそわとした音となって、僕の耳に滑り込んでくる。そんな彼女のすべてに、僕は一度瞳を閉じた。



「すぐに。・・・半年前になるな。」


「どうして。」


「言ったって、お前はやめなかったんだろう。」



彼女の瞳が、小さく震えた。

豊かな大地を連想させる瞳の色は、今はすっかり縮こまっているように見えた。怯えているようにも見える瞳だった。




僕がどんな優しい言葉を投げかけても、その瞳が輝かないことは分かっていた。

分かっていたから、胸のどこかが痛んで苦しくなる。



どうしようもない気持ちが胸に芽生えた。

いつも、この気持ちをどうやっつけたらいいのか分からない。




彼女の瞳を唯一、輝かせることができる相手が妬ましくて、羨ましくなる。

初めてそんな自分がいることを知って、ひどく気分が悪くなったのは、数えてみたらもう随分昔のことになっていた。


それなのに、今だにこの気持ちをしまう場所を見つけられない自分がいた。




「・・・・私、結局ギルに心配ばかりかけたね。」


「そうだな。」



「少しは否定してよ。」


「生憎、僕は正直なのでな。」


「なにそれ。」



少しは、温かな、優しい言葉をかけたかった。

けれど、口から出てくるのは、皮肉なことばかりだ。



彼女が作り出す、透明で見えない柔らかな壁を壊してしまいたかった。

いつもは、頑ななその壁が今日は脆く弱々しい。だから、その壁を壊してしまいたかった。

壊した先に、きっと今よりも温かい何かを得られるような気がしたから。


けれども、僕はいつもその一歩が踏み出せないでいた。

彼女の壁が、少しでも薄くなればいい。

けれど完全に潰えた瞬間、彼女の支えになる勇気が僕にはまだなかった。



僕は、彼女が座っている机の上にある一枚の紙に目を移した。


「出て行くのか。」


なんでもないように見えるその紙が持つ意味を、僕はもう一度考えてみる。

何度考えても、彼女を止める方法が思いつかない。




「・・・どうして、ギルには分かっちゃうかな。」


「お前が考えてることなんてすぐ分かる。」


「そうだね、ギルだもんね。」


「考え直せ。お前が出て行くこと・・」


「だって、ここは狭い町じゃない。」




「迷惑、かけたくないのか?」


「それは、ちょっとだけある。でも、私が耐えられないの。」



あの人と、その隣で笑ってる奥さんと子供見ながら、お腹の子を育てるのは私には耐えられないよ。

ゆっくりと、吐き出される言葉のひとつひとつが僕の耳に響いた



「自業自得だから、分かってる。」


自嘲気味に彼女が言った。

彼女には似合わない声だった。



「でも、産みたいから。」


潤んだ瞳を見つめた。泣いてはいない。

きっと、これからも彼女は僕の前では泣かないだろう。

悲しさも冷たさも、すべて決意に換えて、それでも溢れ出てどうしようもないとき、きっと彼女は一人で泣くのだ。



僕は、励ますように頷いた。

投げかける言葉は思いつかなかった。




どんなに傷つこうと、それでも彼女は声を出す。前を向く。それが、彼女にはぴったりだった。

だからこそ、僕は彼女をこの町に留める術を見つけ出せなかった。


手を伸ばせば、それは簡単に出来たことなのかもしれない。

彼女を守ると女神に誓えば、そこからまた何か別の道が出来たのかもしれない。



けれど、僕は黙っていた。


それが僕の役目だと、なんとなく思っていた。

きっと手を差し伸べても、彼女は首を振るだけだろう。僕の手をとらないだろう。


その時きっと、壊れてしまうのは僕の方だ。

だから僕はなにもしない。ただ、彼女の背中を眺めているだけだ。




「今までありがとう、ギル。」



彼女の声は、少しハスキーだけどよく通る声で、僕の耳に心地よく響く。

言葉の意味を理解するよりも、最後に紡がれる、僕だけの言葉を、耳の中にぴったりと納めてしまおうと思った。

それが僕に許され、彼女を独占できる唯一の一時だった。



きっと、もう少しすれば、彼女はこの部屋を出て、今机の上でうずくまっている一枚の紙をエリィに渡すだろう。

そして明確な理由を誰一人として、例えそれがお腹の子の父親だろうと、明かさずに町を出るのだろう。


瞼の裏で広がる彼女の姿を思い浮かべながら、僕はもう一度彼女に頷いた。

僕の気持ちをすべて託した頷きだった。




まだ、手を伸ばせば触れる場所にいる彼女の気配を感じながら、

僕はただただ胸の中で女神に祈りの言葉を紡いでいた。








 


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