※けして幸せではないですよ。 「指輪なんていらないの。 どうせ、牧場の仕事をしていたらつけられないし、小さなものをなくすくせが、昔からあったから。」 ソファに身体を沈めながら、そう私は言った。 後片付けを終えたチハヤが、私と同じように、隣に身体を沈めた。 今日、チハヤに作ってもらったリゾットは、最高においしかった。 私の舌は満足に歌い、胃袋は頬笑みを絶やさなかった。 「・・そうなんだ。まあ、それは旦那に言うんだね。」 チハヤは、すらっとして骨ばった手を手持無沙汰に組みながら、相槌を打ってくれる。 私は、ご機嫌に彼の言の葉に答えた。 「彼にはもう言ってあるの。指輪を買う予定だったお金は、将来のために貯めようって。 少し残念がってたけれど、それでもいいって。」 「ふーん。」 私はチハヤの方を向いているのに、 チハヤの紫の瞳は、相変わらず彼の手しか見ていない。 「チハヤはやっぱり、指輪を買ってあげたいって思う?」 私は、こっちを向いてくれないかなと思いながら、そう聞いてみた。 だって下を向いていたら、チハヤが怒っているように見えたから。それが嫌だっただけなのだ。 「さあ・・・。それよりも、ほしいものがあるから。」 「なあに?」 私は、なんでも聞いてあげるわ、話してちょうだい。 と熱心な牧師さんのように、あるいは孫の話を聞くおばあさんのように、耳を傾けた。 とにかく、チハヤの機嫌が悪いようなのが嫌だった、ただそれだけなのだ。 ようやっと、こちらを向いたチハヤの紫の瞳は、 なんだか暗い色をしているような気がした。 照明のせいかもしれない、そう思って私は彼の瞳を見つめて、確かめようとした。 「これ。」 チハヤは、すっと視線を落とすと、私の指を指差した。 「え?」 私は、思わず、きょとんとした言葉しか出てこなかった。 恥ずかしいくらい素直に、その声は空気に響いた。 「この薬ゆびを一本、ぼくにちょうだい?」 「だからチハヤ、指輪は・・・。」 「指輪なんてはめないんでしょ?だったらこの指は、必要ない。」 「チハヤ・・・・・?」 私はわけがわからなくなって、すがるように彼を見た。 そんな私を見て、チハヤは小さく笑った。 「ねえ、アカリ。本当に、今まで、気づかなかったの?」 その言葉は、ひどく残酷に、私の耳に届いた。 ウェディングケーキを焼いてあげると言ったその口で、 彼は私を突き放すように、次の言葉を口にした。 それはつららのように、私の柔らかな心臓を突き刺した。 気づかなかった。気づけなかった。 そんな言葉はもうどうでもいい、とでもいうように、チハヤの視線は私をとらえて離さなかった。 「僕のものになれないなら、せめてこの指をちょうだい。」 「え・・・?」 なにがおこったか分からなかった。 一瞬、するどい痛みが左の薬指を襲った。 チハヤの真っ白な歯が、私の指の皮膚に痛みを与えたのだと気づくまで、 そんなに時間はいらなかった。 けれども、その状況に、頭も心もついていけなかったのだ。 チハヤのオレンジ色の髪の毛が、私の目の前を上下した。 視界に入ったのはただそれだけだった。 チハヤにかじられた薬指から、皮膚を破って現れた血液が、ぽたぽたと垂れ始めた。 それが、真っ赤なルビーのように、痛々しく光っている。 その血液の中に、チハヤの唾液も混ざっているのかと思うと、なんだかいやらしい気分になった。 「・・きれいだね。」 チハヤは小さく笑い、もう一度私の左手の薬指に唇を寄せると、 ちゅっと音を立てて、キスを落した。 チハヤの唇が、私の血液に濡れて、赤く光っている。 真っ白になった私の頭の中で、 ただその赤だけが、鮮やかに瞼の裏に焼きつけられようとしていた。 |