『ママのこと覚えているかい?』 パパの言葉にあたしは、なんていったらいいのか分からなくて、口ごもってしまった。 ママの顔は知っている。毎日、写真立ての中で笑っているままの顔を見ているから。 小さなあたしを抱いているママは優しそうに笑って、こっちを見ている写真。 あたしは、ママの声もしゃべり方も、どんな人だったのかも覚えていなくて。 パパが、 「アカリはとっても元気でね。昔、ダチョウを乗りこなす練習中に、勢い余って柵を壊しちゃったこともあるんだよ。」 ってささやかな思い出を、そっと撫でて慈しむように言うパパの話が、 唯一あたしのママへの人物像を思い描く手がかりだった。 『なにかちょっとしたことでもいいんだよ。サクラはなにかママのことで覚えている?』 パパは再度あたしに聞いてくる。眉根を寄せて、ちょっと困った顔をしながら。 そんな顔をして聞いてくるから、あたしは困ってしまう。パパの思うような答えを出すことなんてできないのに。 わかんないよ。 一体、あたしが何歳のときの話なの?パパはあたしに、ママの姿を求めすぎてるよ。 そう言ってしまいたいのをぐっとこらえて、あたしは必死で昔のことを思い出そうとする。 ぐるぐるとおいかけっこしてるみたいだった。 いつだって同じで、いつだって答えは出てこない。 何も進まないし、何も変わりはしないのに、 パパとあたしはいつだって、終わりのない追いかけっこをしているのだ。 果樹園に続く道を歩くのは、もう何度目になっただろうか。 毎週、パパが休みの日曜日に、あたしはパパと一緒にこの果樹園に来て、木々の世話をしていた。 パパが仕事をしていて来れない日も、 あたしは一人でこの道をよく辿って、青々と茂るオレンジの木の、力強い緑色の葉っぱを眺めていた。 この場所が好きだった。 どうしてかは分からないけれど、濃い色を放つオレンジの葉を見ていると、自然と心が安らいでいく。 家にいるのとはまた違う安心感に包まれながら、 あたしは最近お世話を任せてもらっている一本のオレンジの木の前に座った。 やっぱり、まだオレンジは実ってない。 パパの大好きなオレンジがあったら、パパの元気を取り戻せると思ったのに。 最近、パパの様子がおかしかった。 普段通りを装っているけれど、なんだか見えない透明なものがパパを包んでしまっているように見えて、 パパもその中に閉じこもってしまっているように思えてしょうがなかった。 なんとなく、本当になんとなくだけれど、あたしはパパの元気のない理由が分かる気がした。 けれど、その理由だとはっきりと分かっていても、あたしがパパにしてあげれることはなにもなくて、 ただ歯痒い思いをしながら、パパのどこか下がった肩を見ることしかできないのだ。 だって、理由は。きっと、ママからの手紙のことなんだ。 毎年、ハーバルさんが持ってくる手紙はママがパパにあてた手紙だった。 あたしのはないの?って何度パパに聞いたか分からないけれど、 そんな時、パパは決まって便箋の中にある花のしおりをあたしにくれていた。 そしてパパは、あたしが寝るような時間に一人机に向かって、ママへ返事を書き始める。 一度だって、その内容を見たことはなかったけれど、 パパが書いた手紙がずっと机の引き出しの中に入りっぱなしで、 毎年一通ずつ増えていっているのは知っていた。 でも、今年、ママからの手紙がハーバルさんから手渡されても、 いつも通り、あたしにしおりをくれた後、(今年は、薄紅色のコスモスの花が添えられていた。) パパは一向に手紙の返事を書こうとしていなかった。 一体なんて書いてあったんだろう。 ママの手紙を、読んだことはなかったけれど、パパの姿を見ていると、 一体ママはなんて書いて、そのどの言葉にパパは悲しんでいるのだろうと気になって仕方なかった。 濃い緑色の葉っぱの表面を指先で軽くなぞったり、指で弄びながら、ふっと空を仰いだ。 青い。なんでこんなに青くなるのかなって思うくらい、頭上の空は青く澄み渡っていた。 そんな中で、ひとつだけくっきりとした白い雲が、こちらに向かって泳ぐように浮かんでいた。 「・・・ママ。」 たった一つだけ空に浮かぶその雲を見つめながら、あたしは顔も声も覚えていないママの名前を呼んだ。 応えてくれないって分かっている。 ママがあたしの声を聞けないことも、あたしがママの声を聞けないことだって、ちゃんと分かってる。 でも、言わずにはいられないよ。 「どうして、パパを置いて行っちゃったの?」 どうして、サクラを置いて行ったの? 口に出そうとして、でもやっぱり言えなくて、その言葉だけはつぐんだ。 言ったら、きっとママを恨んでしまう。ママの記憶がないあたしを憎んでしまう。 もう何百回もしてきたことを、また思ってしまう。思いたくなんてないのに。 「・・・なんで、手紙だけ残してるの?」 どうして、パパを苦しめるの? ただ、お空から見守っているだけじゃ飽き足らなかったの? ねえ、ママ。 あたしは、ママの腕の温かささえ覚えていないんだよ。 いつだって、写真でこれがママだよって教えてもらうだけで。ママに会った記憶がないんだよ。 どうして、あたしを置いていったの?どうして、あたしの物心がつくまで待ってくれなかったの? 頭では分かっているのに、心から滲み出てくるのは、恨みがましいことばかりだった。 そんな自分が嫌で嫌でたまらなくて、あたしは目の前のオレンジの葉をぶちりと引きちぎった。 引きちぎられた葉が手からこぼれて、ゆらゆらと地面に吸い込まれるように落ちていった。 「サクラ。」 あたしは呼ばれるわけない人にいきなりよばれて、驚いて後ろを振り返った。 仕事用のエプロン姿のパパが、ゆっくりとこちらに歩いてきている。 「・・・なんで?」 思ったよりも声が小さくなってしまった。 さっきの独り言を聞かれたかもしれないという不安が、頭の中でふわふわと揺れているせいだ。 「ちょっと、此処に来たくなってね。休憩中に抜け出してきたんだ。」 緩く口角をあげたパパの笑みは、どこか疲れていて、 それでもあたしの独り言を立ち聞きしてしまったという顔ではなかった。 あたしは、ふうんと相槌を打った後、なんだか居心地が悪くて、 先ほど引きちぎった葉っぱをプチプチと引き裂いていった。 「サクラ、今日のご飯は何がいい?サクラの好きなもの作ってあげるよ。」 「なんでもいいよ。」 「そっか。じゃあ、ブイヤーベースでも作ろうかな。」 ママが好きだったんだよ。と付け足すように言ったパパの顔が、やっぱり寂しげで、あたしはたまらなくなった。 「・・・ねえ、パパ。」 「ん?」 「ママに、返事書かないの?」 一瞬だけ、パパの目が大きくなって、それから力を失くしてしまったかのように、ゆっくりと瞼で伏せてしまった。 パパの葡萄色の瞳が(きっとあたしも同じ瞳の色をしているのだ) 瞼の裏で何を見つめているんだろうと思って、 あたしは、じっとパパの瞼を見つめていた。 まずいことを聞いてしまった、とは思わなかった。 それよりも、一番知りたかったことを、今やっと聞けたという安心感の方が強かった。 少しずつ増えていく花のしおりも。果樹園に実るオレンジも。 タンスの中に眠っている、あたしの小さな黄色い手袋も。 全部、全部、パパとママの中でゆっくりと蓄積していった思い出の一部だ。 その中に、あたしは、ほんの少ししか混ざっていない。 「パパ。」 じっと、パパを見つめた。 パパがどこかにいってしまいそうだった。ただ、そう思った。 微かに、微笑むパパの顔が遠くて、とても目の前にいるかのようには思えなくて、 それがとても恐ろしいことのように思えた。 パパもあたしのことを置いていくの?ママのように? ママはあたしをおいて、空に旅立っていっちゃったから。 でも、パパは、パパはそんなことしないよね?あたしのところにいてくれるよね。 明るい髪の毛の色をあたしはパパから譲り受けなかった。 ママと同じ髪の色だよ。 そう言うパパの瞳の中に、あたしはもしかしたらいないんじゃないかと思った。 ねえ、パパ。もしかして、ママのところに行きたい? あたしを放っておいて、ママのところに行きたいんじゃないの? 行ってもいいよ。なんて言えるほど、あたしは寛大じゃないよ。だって、パパとママの子供だもん。 ママがそれで喜ぶわけないって、パパだって知っているでしょう? そうだ。いつだって。 パパはあたしにママの姿を求めている。いつも、もういないママの姿を探している。 だから。一番の影であるあたしに、ママの姿を重ねているんだ。 でも、でもパパ。それって逃げなんじゃないの。 あたしから、ママから、逃げているんじゃないの? あたしはゆっくりと息を吸って、同じようにゆっくりと吐き出した。 胸が高鳴っていくのが止められなかった。ずっと、聞きたかった。でも、聞けなかった。 パパとママの間であたしは、ずっとぬくぬくと育ってきたはずだったのに、 パパのママへの愛情が上手く推し量れなかったのも、きっとその根底が見えてなかったからだ。 だから、前にも後ろにも進めなかったんだ。 「パパは、ママにどうしてほしかったの?」 しんしんと降り積もっていく雪の音が耳の裏で聞こえた気がした。 ママが編んでくれた手袋が、もう着けれなくなって、ぐずるあたしの声が。それをなだめるパパの声が。 あれは、いつのことだったのかな。 |