「アカリ。」





呼び止められた声が誰のものか、わたしはとっくに分かっていたのに、振り向くことが出来なかった。


いや、分かっていたから振り向くことができなかった。

彼の前で、どんな顔をしたらいいのか分からなかった。





「待ってよ。」



「・・・チハヤ。」





わたしは今どんな顔をしているんだろうって、

一瞬、そんなことを思ったけれど、すぐにそれは掻き消えた。



むっと、口を結んだチハヤが、明らかに怒っていたからだ。





「どうして振り向いてくれないんだい。」




ゆっくりと、チハヤは言った。



わたしは、チハヤと視線を合わせたくなくて、紫の瞳を見ないように小さく俯いた。




「ごめんね。気づかなかったの。」



「嘘。」





「君は、僕に嘘ばっかりつくんだね。」





チハヤの言の葉のひとつひとつが、わたしの耳にゆっくりと沁みこんできた。


わたしは心の中をえぐられたような、ひどく寂しくてどうしようもない気分になった。






「嘘じゃないわ。」


声が、震えた気がした。



いつだって、チハヤはわたしが隠したいと思うことを敏感に感じ取るから、

表情も声も抑揚も、気をつけなくちゃいけないのに、

声が震えてしまった。





「じゃあ、どうして最近店に来ないんだい?」



「忙しいから。」


「冬なのに?」



「冬だから、稼ぎ口が少なくて大変なの。」





ちらちらと雪が降ってきた。


チハヤのくしゃくしゃのブラウンの髪の毛の先やブラウスに、小さな冬のしるしがくっついては消えていった。


わたしは、雪が降ってきたことに興味を引いたようにチハヤから視線を外したけれど、

チハヤはずっとわたしから視線を外してはいなかった。




「それじゃあ、今日僕が家に行ってもかまわない?」


「・・・今日は、先客があるの。」



「それ、前も言ってたじゃないか。」

「だって来るんだからしょうがないじゃない。」


「嘘ばっかり。」



「なによそれ。」

「そのままの意味だよ。」




辺りに、雪がすこしずつ積もってきていた。


わたしとチハヤの間に出来てしまったものが、ここにあるような気がして、

私は一瞬だけ、踏み潰してしまいたいと思った。






「・・・僕、なにかしたかい?」



「肩痛いよ、チハヤ。」

「答えて。」



肩が熱かった。チハヤの左手が、ぐっとわたしの右肩を掴んで、わたしは動けなくて。


久しぶりに触れたチハヤの手が、わたしには怖かった。



綺麗な紫色の、わたしが一番すきなチハヤの瞳の中に映っているのは、

わたしじゃだめなんだよ。


マイじゃなきゃ、だめなんだよ。




もうこれ以上、チハヤの綺麗で透明な、何にも曇らないチハヤだけの瞳の中に、

わたしが映ることが耐えられなかった。


わたしは、わたしの肩をつかんでいるチハヤの左手首を掴んだ。





「チハヤはなにもしてないし、わたしは嘘なんてついてないわ。」




声は震えなかった。



だけど、チハヤの瞳が震えた気がして、わたしは締め付けられるような気持ちになった。






肩を掴んでいた手が離れた。



あれほど、痛くて熱いと思っていたのに、チハヤの手が離れた途端、


自分の肩がひどく薄っぺらいもののように感じられた。





「そう、分かった。・・・もういいよ。」


「・・・・・・・。」




もう、チハヤはわたしを見なかった。


小さな雪が私の肩に降り落ちてきて、それが痛いくらい冷たかった。







「・・・・これ、約束したから。」




永遠に近いと思うほど長く感じられた沈黙の後、ほとんど呟きに近い声でそう言うと、


チハヤはずっと背中の後ろに隠していた右手を出して、持っていた何かをわたしに押し付けた。




おもわず落としそうになったそれを、わたしは慌てて両手で持った。

それは、キルシュ亭の名前がついている白いケーキの箱だった。




わたしが受け取ったのを確かめると、

チハヤはすっと背中を向けて、早足にキルシュ亭の方向に帰っていった。



わたしは呆然としてしまって、

チハヤの姿がだんだんと白っぽくなっていくのを、見つめていることしか出来なかった。





チハヤが見えなくなった後、

はっと気づいて、わたしはチハヤが残したキルシュ亭のケーキ箱に目を移した。


ちらついている雪がふわりとその箱に降り下りるのを、

そっと指で掃ってから、わたしは箱を少し開けて中身を覗きこんだ。





「・・・・・っ。」



わたしは、頭が真っ白になって、箱を抱えたままその場に膝をつけた。


箱の中に入っていたケーキには、

ふっくらとした小麦色の生地の上に、きらきらとしたさくらんぼがいくつも乗っていた。




チェリーパイだった。



開いたところからこぼれた、ふんわりと甘いにおいがわたしの鼻孔をくすぐった。





「・・・・・・チハヤ。」



膝が冷たくて痛かった。


だけどそれよりも、胸の中が痛くてたまらなかった。

じくじくと、小さないくつもの針に刺されているようだった。



目からでてきそうになったものを、慌ててわたしは止めようとした。

泣くなんて、あまりにも筋違いだ。


チハヤの気持ちを踏みにじったくせに。






手の中にある、チハヤがくれたチェリーパイを見て、


初めてわたしは、今日がなんの日だったのか思い出したのだから。

 






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