トントントン、トン。 ふっ、とわたしは顔を上げた。 鍋の中身をかき混ぜていた手を止めて、音が鳴ったドアの方を見た。 クツクツとお古の鍋からは、シチューが温められていく音がしていた。 トントントン、トン。 もう一度、ドアを叩く音がした。 控えめなのにそれは、よく響いた。 ドアの前に立っているのはきっと、チハヤだろう。 チハヤはいつも決まったリズムでドアを叩くからだ。 「はい。」 いつものように私は、ドアノブに手をかけた。 途端に、昨日のマイのちょっと高い声と、まっすぐと見つめてきた薄青色の瞳が、頭の中に思い浮かんだ。 彼女の真剣な瞳に見つめられたときみたいに、わたしは一瞬よりも少し長い間動くことが出来なかった。 トントントン、トン。 もう一度鳴ったドアの音に、わたしははっとして慌てて、ドアを開けた。 真っ白な銀世界のような風景が広がる中で、チハヤはちょっと不機嫌な顔をして立っていた。 「遅い。」 むすっと、口を結んだチハヤの顔を見て、わたしはなんだか安心してしまった。 そこで初めて、わたしは、マイの言葉に動揺していたんだと悟った。 「・・・ごめん。」 「ジェイクさんにハーブティの葉をもらったんだ。一緒に飲もう。」 「ほんとう?」 わたしはチハヤが手にしている袋の中身を覗きこんだ。 「ちょうどよかった。今シチュー作ってたの。もうご飯食べた?」 「まだだよ。狙ってきたんだ。」 「なにそれ。」 笑いながら、わたしはチハヤと一緒に家の中に入った。 チハヤは家の中に入ると、さっさとキッチンに入ってシチューの鍋の中身を見て、おたまでちょっとかき混ぜた。 わたしはなんだかそれがチハヤらしくて、また笑いそうになった。 「お味はどう?」 小皿を取り出して味見しているチハヤにわたしは聞いてみた。ちょっと、どきどきしてた。 「まあまあだね。」 「あ、なんかむかつく。」 「はは、うっそ。おいしいよ。マイに見習わせたいくらい。」 「・・・・・・。」 返事どころか、相槌さえうてなかった。 マイの名前がチハヤの口から出るだけで、わたしはマイのあの瞳と声を思い出して、頭が真っ白になってしまった。 わたしは、なにをしてるの? チハヤが鍋にかけていた火を止めた。クツクツと鳴っていたシチューの出来る音が消えて、 「マイがさ、料理教えてって言うんだ。苦手なのに、急にやる気になっちゃて。」 「・・・・・・。」 だめだ。言葉が出てこない。 マイの真剣な瞳を、マイの気持ちを、わたしは裏切っている気持ちだった。 チハヤのことを本当に好きなのはマイだ。わたしじゃない。 そう考えたら、なんだか絶望的な気持ちになった。 遭難して、無人島にひとりで行き着いてしまったみたいな、ひどく寂しい気分になった。 「アカリ?どうしたんだい?」 チハヤが、ひょいっとわたし前に来て、わたしの顔を覗き込んだ。 紫の瞳と視線が合う。わたしは頭の中でマイの瞳とその瞳を重ねていた。 「・・・なんでもないわ。」 「そう?ならいいんだ。ご飯食べよ?」 「うん。」 どうしよう。気づいてしまった。 わたしは、チハヤをマイほど好きになれていないんじゃないかって。 天秤にかけるものではないものなのかもしれない。 でも。そう言うには、 マイの言葉は・・・マイの気持ちを踏みにじってまで、 わたしがチハヤと友人の関係を築き続けていくことは、わたしには辛すぎた。 わたしは、なにをしているんだろう?なにをしたいんだろう? チハヤとは、ずっと友達のままでいたかった。 一緒にご飯を食べたり、同じベッドで眠ったり、 すこし仲が良すぎるって周りが思おうと、そんなことよりもわたしはチハヤといたかった。 マイの言葉を聞くまでそう思っていた。 でも、それはただのわたしのワガママだ。 いつか、チハヤも恋をする。それはきっとわたしじゃない。 友達以上の関係になんてわたし達はなれないもの。 だから、そのとき、いきなり一人ぼっちになるのは辛すぎる。 わたしはチハヤと向かいあってシチューを食べた。 味なんて全然分からなかった。 具合が悪いからと言って、わたしはチハヤに帰ってもらった。 傍にいようか?と言ってくれる彼の言葉をどんな風に断ったか、チハヤがなんと言って帰っていったのか、 わたしは何一つ覚えていなかった。 |